這いあがる笛
差路
這いあがる笛
頭上の半月が一瞬にして翳りを見せた。
半弓の、弓なった玄海の入り江が、ふいに視界から失せる。
遠方の町灯が波間をわずかに輝かせ、よりいっそう周囲の暗闇の濃さを際立たせたが、防波堤の上に立って釣り糸を垂れるわたしの背は、押し付ける突風で身が保てない。
そんなときの急の暗転に湧き出すものは、見たことのない塊や、人をかたどった恨めしげな顔、わたしの背後に立つ顔の見えない…女。
不安が恐怖を掬い上げ、酒が入って緩んでいた顔のたるみは、ピシリと引き締まる。目的のアジやヒラメではない、小刻みな心の震え。
押し戻しの風が、わたしを海中へ放り込もうとしてる!
たまらずドシリと腰を下ろし、飲み残しのチュウハイに手を伸ばした。
わずかに残ったアルコールは胃に鋭く差し込み、身体はますます凍えて後悔ばかりした。
汗が額から落ちる。
後悔が不安を拭う事もあるのか、湧き上がった恐怖はその汗だけを残して遠ざかってくれたようだ。
誰に対する抗弁でもないのにゴホゴホと咳き込んでみせ、わたしはあたりのスルメを口に含んでからテグスを巻き戻し始めた。
浮き上がるような風圧がだんだん収まってきた。
雲間に潜んでいた半月も再び顔を覗かせ、町明かりと夜の狭間に濃い藍色がかかっている。入り江全体が見渡せるが、いつの間にか釣り人の姿がなくなっている。
当然だ、深夜にさしかかってここにいられるのは、わたしだけだ。
明日の仕込みは、妻に任せてある。店員たちがなんと言おうが、休みなく働いてるんだ、これくらい許してもらわないと…。
うごめく餌を二つに引きちぎって針に刺そうとする。
「アイタ!」
餌がわたしを噛んだのだ。
コイツに噛まれるのが、大きなヒラメをあげるまで嫌でしょうがなかった。よく連れられてきた幼馴染に餌を針に刺してもらっていたが……。
ああ、嫌なことをまた思い出した。
針先がよく見えない。スタンド式のライトをつけてわたしは手元を照らす。
フュルフュルフュルフュルー。
風の音が背後からする。
テトラポットのくず山が、この釣り場の裏、養殖場跡のような海溜りに放り込んである。腐ったような海水と、年季の入ったコンクリートの残骸が、どんな風にかなって、気勢を上げている。いつものことだ。
半月の光が翳ったあの時、わたしに満ちたあの恐怖の出所は、本当のところ私自身が作ったものなのだ。
あの晩だ、今宵のような。
あれだけの突風が吹き荒れていたのに、アイツは行こうといってきかなかった。言い出すとどれだけ説得しても利かないので、付き合って間もなくだったのに、だんだん嫌気が差してきた。
その後、ああいうことになって三年後、今の妻と出会って結婚した。
ウチの土産物屋は代々細々とやっていて、ほとんど休みがないまま働き詰め。趣味に干渉しない妻は、この海釣りがアイツから始まったことを知らず、わたしもしゃべらずにきた。
フュルフュルフュルフュルー。
アイツがわたしの背後で子供を身ごもったと言ったときも、今のようにもう誰も居なかった。わたしはアイツにこの関係を続けるつもりはないと言った。 早く別れたかった。
言合いになった。
フュルフュルフュルフュルー。
また、風の音がする。聴きようによっては笛の音のようにも思える。
怖がることはない、いつもと同じじゃないか。
まだ針先が見えない。
誰も気づいちゃいない。気づいちゃいない。
ふと、振り向いてテトラポットに目を泳がせる。夜の帳はごつごつとした白い塊だけを披露してくれる。
鼓動が必要以上に高まる。まだ餌が付け終わらない。
何度か確認しに行ったが、相変わらずコンクリートの間に挟まったままだ。
海水に洗われながら、雑魚や舟虫がきれいに片付けてくれるまで、誰もあそこへ近づくはずがない。
ただ、この湧き上がる不安だけはどうしようもない。
風を受け、押され、音を聞くたびにわたしに這い登ってくる。
突風が呼び込む。
海へ、海へ、海へと。
風の音の断罪。
何故、何故、何故と。
這いあがる笛 差路 @thurow
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