3
古き良き時代を彷彿させる喫茶店。
それが
「シュガー&ソルト」
を表すのに最も適した言葉だろう。
僕はプールから一度自宅に戻り車を置いてから、
自転車でここまでやってきた。
二台しかない駐車場の一つを
僕の車で占拠することが申し訳ないという
常連なりの気遣いである。
ドアを開けると
「いらっしゃいませ」
という元気な女の子の声が聞こえてきた。
彼女はこの店のアルバイトの
須磨もしほ(すま もしほ)。
たしか今年で二十四歳。
身長は百六十センチほど。
細身で小麦色に日焼けした肌が健康的で、
少し明るめの長い髪を後ろで一つに束ねていた。
やや幼いその顔立ちは化粧が薄いせいか、
高校生と言っても通用すると思えた。
彼女は明るく社交的で、
女性と会話をすることが苦手な僕が
唯一普通に会話することができる異性でもあった。
もしほは僕に気付くと、
「あら、八木さん!
いらっしゃい。
まだランチは大丈夫よ。
ね、マスター?」
とカウンターを振り返った。
カウンターではこの店のオーナーでもある
佐藤敏夫(さとう としお)
が洗い物をしていた。
長い白髪を綺麗にオールバックでまとめた彼は
直接聞いたわけではないが
おそらく七十歳は越えていると思われた。
昔、長距離ランナーだった名残か、
その体型は今でも細くスラリとしていた。
「おう。
明人ちゃん、ランチにするかい?
今日はハンバーグだ」
僕は「お願いします」と答えてから、
カウンター席に腰掛けた。
店内に他の客はいなかった。
「シュガー&ソルト」は
最近、流行りのカフェのように
お洒落でも賑やかでもなく、
ここはくたびれたサラリーマンが主な客層だ。
なのでランチの時間さえ避ければ客も疎らである。
このご時世に店内禁煙どころか
分煙すらしていない店は珍しい。
しかし
それが女性客を遠ざけている一因であるならば、
僕は多少の副流煙は我慢するつもりだ。
家から自転車で五分とかからないことも
この店の魅力の一つだった。
何よりもここの料理はどれも美味しく
手が込んでいた。
そこが他の喫茶店と大きく違う点だ。
この店には食事のメニューがなかった。
入り口のすぐ横の壁の黒板に
その日のメニューが書いてある。
あとは客のリクエストがあれば
その時に可能なモノなら何でも作ってくれる。
昔は一応メニューは置いていたらしい。
元々料理好きなマスターが
次々とメニューを追加した結果、
喫茶店というよりも
定食屋になりそうだったために、
反省して今のようなスタイルにしたと
以前に本人から聞いたことがある。
「飽くなき料理への探求だよ、明人ちゃん」
料理を褒めると
いつもそんなセリフが飛び出すのも、
マスターの料理に対する情熱ゆえのことだ。
仕事と趣味を両立させるのは困難と聞くが、
マスターを見ていると
その限りではないように思えた。
遅めの昼食を食べてから、
休憩時間になったもしほと少し話をして、
僕は店を出た。
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