第10話 命を救う悪徳令嬢

 迷いのダンジョンにつたわる噂——

 ここで迷いびとになったとき、助け人がきても黒いドレスの令嬢には、助けを乞うてはならない。

 その理由は、命が助かる代わりに、意志を打ち砕かれてしまい、『廃冒険者』になってしまうから、というのです。

 どういうことなのかって?

 その意味はよくわかりません。その令嬢に助けられてみない限りは。

 ただ、その令嬢はすでにこの世の者ではなく、元悪徳令嬢だったというのが関係あるのかもしれませんね。


第10話 命を救う悪徳令嬢------------------------------------------------


迷ったら二度と出られない迷路、『迷いのダンジョン』——


 わたしもたしかにその噂は耳にしていた。


 ダンジョン攻略に長けたコボルト族と、呪文ひとつで脱出する術をもつ魔導士を、パーティーに加えたのはそれに対応するためだ。


 このマルセル・マルセンにぬかりはない——


 実際、ダンジョンはおそろしいほど入り組んでいた。迷路攻略に馴れている自分でさえも、何度も迷いそうになった。


 だが、コボルトのテックはなんのためらいもなく、第六階層までするすると降りていった。コボルト族のもつ絶対的な方向感覚と嗅覚には舌を巻くしかなかった。

「もう。マルセルも、みんなもしっかりしてくれよな。あんたらだけだったら、まちがいなく3回は迷ってるぜ」

「テックの言う通りですよ、マルセル。とはいえ、ベテランのはずのわたしも四層目で迷ってしまいましたが……」


 そう苦笑いしたのはわたしの右腕、戦士のコーン・ロッド。それを聞いて、斧使いのハーフ・オーガ、ボヲんゾが皮肉を言った。


「コーン・ロッド、きさま歳なんだよ、歳。ベテランと言えば聞こえがいいがな」


「ボヲんゾ! 二層目でおたおたしていた、あんたが言うんじゃないよ」

 弓使いのマーロンがたしなめる。


「まぁまぁ、みんな。つまりはテックを仲間に加えた、わたしの判断が一番ただしかった。そうだろ?」


 たしか、そう言ってわたしは軽口をたたいていたと思う——



 だが、わたしは今、第七階層で迷い人となっていた。

 しかも、たったひとりで——


 頼みのテックや魔導士のコルトスだけでなく、ほかの仲間とも、一瞬にしてはぐれてしまったのだ。なぜそうなったのか、まったくわからない。

 とりあえず、わたしはダンジョン内で迷ったときの心得第一条を実行した。


 むやみに動き回らないこと——


 わたしは両側を見渡せる通路の真ん中に陣取ることにした。


 どこか部屋を探して待機するほうが、快適だし安全なのはわかっている。ただ、助けにきた仲間が素通りする可能性がある、と考えると、見通しがよい場所がベターだ。わたしは咳き込みそうになる、下層からの生臭い臭気に耐えて、ここにとどまるという選択をした。


 夜になると魔物が徘徊する可能性もあったが、それまでにはどうにか解決することだろう——


 だが、3日経っても、なにもおきなかった。


 ひと気がないどころか、魔物やバケモノの気配すらなく、あたりはずっと静まりかえっていた。ときおり聞こえてくるのは、空腹に不満を訴える自分の腹の音だけだった。


 変化といえば、あたりに靄もやがたちこめはじめ、それが日に日に濃くなってきたくらいだった。


 5日目になると空腹は堪えがたいほどになってきた。


 あたりを捜索して、飢えをしのげるものを探そうとも思ったが、すでに伸ばした自分の指先が見えないほど靄もやが濃くなっており、一歩足を踏みだすのにも往生した。


 7日目—— 


 わたしは身動きすらできなくなっていた。


 通路の柵に上半身を預けたまま、一日中、ぼーっと自分の足先を見つめているだけだった。それですらうすらぼんやりしか見えていない。脱水をおこしているのか、ときおり漏れる呻き声ですら、咽喉にはりついてかすれている。


 なにかが動いている——


 そう感じたのは、そんなときのことだった——

 通路をなにかが移動しているのだ。歩いているというのではなく、通路の石畳のうえを滑っている、という印象。とても人間とは思えない気配。


「助けて……」


 わたしは気づくと、そう呟いていた。


 わたしを喰らう魔物や、あだなすバケモノの可能性のほうが高かったが、もうどうでもよかった。

 7日ぶりに聞こえた音、にわたしはすがった。


「まあ、どうされたのですか?」

 みずみずしくも、艶っぽさを感じさせる女性の声——


 はからずも目から涙がつーっとこぼれ落ちる。


「助けて……ください……」 


 女性がわたしのすぐかたわらで、片膝をついた。

 なまめかしい太ももが目にはいった。


「なにをすればよろしいですか?」


 女性はわたしの顔を覗き込みながら尋ねた。

 その顔だちは薄もやのなかでも、はっきりと見てとれた。

 切れ長の目、理想的な位置にある鼻、ふくよかなくちびるは潤うるおいにみちていて、男でなくても惹きつけられる。こんなダンジョン内でなくても、出会える機会はめったにないと感じるほどの美人——


「み、水を……」


 わたしにはその美しさに、見とれている余裕はなかった。


 どこから水を汲んできたのかわからない。しばらくののち、彼女は水をもってきて、わたしの口に流し込んでくれた。あの魅力的な口から口移しで。


 だが、わたしの頭に浮かんだ思いはたったひとつだった。


 死なずにすんだ——


 おもわず涙がこぼれ落ちた。彼女はその涙をやさしく、指先でぬぐってくれた。それがすこし恥ずかしくて、わたしは顔を横にそらした。そのとき彼女の服の一部がかいまみえた。


 黒いドレス——


 いつぞや、居酒屋で出会った老人に言われたことを思い出した——


 わたしはそのとき、素っ頓狂な声をあげた覚えがある。

「黒いドレスの令嬢が助けてくれる? 迷いのダンジョン内で?」

「ああ、そういう話を何人もから聞いた」

「でも助けてくれるんでしょう?」

「かいがいしくね」

「それはぜひお願いしたいものですね」


「いや、もしダンジョンで迷って、その黒いドレスの令嬢が助けを申し出てきたとしても、ぜったいに助けられてはならない」


「ぜったいに? どういうことです? ご老人」

「その者は死者だからだ。とっくにその身は朽ち果てて、その未練だけがさまよっておるのだ」

「死者? でも……命を助けてくれるんでしょう?」

「まぁな。だが助けを請うてはならない」

 シーランはわたしの目の前に、指をたてて力強く警告した。


「請うてしまえば、冒険者は意志を打ち砕かれ、その者は『廃冒険者』となるだろう」


 そう忠告されていたからといって、ほかに選択肢があっただろうか?

 もし助けを求めなければ、わたしはあのダンジョンの奥深くで、だれにも知られず朽ちていた。姿もあらわさない生者より、手を差し伸べてくる死者を選ぶしか、わたしが助かる術はなかったのだ。


 ミロンダ・ミレディーと名乗る黒いドレスの令嬢は、それから日に数度、おそらく食事時間頃になると、姿を現わすようになった。

 彼女は手ずから、肉をわたしの口まで運んでくれた。衰弱が抜け出せず、まともに動けないでいるわたしには、とてもありがたかった。

 肉はとてもうまかった。

 お世辞にもしっかり味付けされている肉、とは言いがたかったが、このダンジョン内でそんな贅沢はいえない。食材にも調味料にもかぎりにあるにちがいないのだ。

 

 ある日、わたしは意を決してミロンダに尋ねた。

「ミロンダ…… わたしはあなたがすでに亡くなっていて、迷ったひとを助けていると聞きました。それはほんとうでしょうか?」


 ミロンダはハッと目をおおきく見開いたが、すぐに目を伏せて哀しそうに言った。

「はい…… おっしゃるとおりです」

「な、なぜ…… 霊になったあとまで、迷い人を助けているのです?」


 彼女は申し訳なさげな表情で、消え入るような声で答えた。

「それは、わたしが生前おこなってきた悪徳の、せめてもの償いなのです」

「悪徳? あなたはどんなわるいことを?」


 彼女は自分の生い立ちをとつとつと語ってくれた——


 彼女は貴族階級の生まれで、15歳のとき有力貴族の次男だった男と結婚した。相手は20歳も年上の、背の低い太った体臭のきつい男だったという。だれからもうとままれるような、いじいじとした性格で、使用人にも陰口をたたかれるほど人望がなかった。

 だが、彼女はそんなことはどうでも良かった。

 彼女にとって一番の問題は、たとえ豪族の血筋であっても、次男坊ではたいした財産も権限もない、ということだった。


 そこで彼女は長男に近づき誘惑した。

 もてる美貌と豊満な肢体を武器にして、彼を肉体に溺れさせると、たくみに持ちかけて、自分の夫である次男を殺すようにしむけた。長男は弟の未亡人である彼女との結婚を、父親に願いでるが、彼女のたくらみを察した父親は反対し、断固として許可しようしなかった。

 父親に逆らえない長男の態度に業を煮やした彼女は、ひそかに手に入れた秘薬で、父親を病死にみせかけて亡き者にする。

 障害がとりのぞかれた彼女は、全財産をひきついだ長男の妻の座を、ついに手に入れた。


「すべてを手に入れて……あなたは……なにをしたかったのです……?」

 その話に多分に圧倒されながら、わたしは彼女に尋ねた。


「すべてを手に入れて?」

 ミロンダはくったくのない表情で、おどろいた顔をしてみせた。


「いいえ、こんなのすべてなもんですか」

「だって、この貴族社会の頂点は、王ですのよ。すべてを手に入れるには、王女にならなければでしょう?」

「ま、まさか……王女に?」


「もちろんですわ」


 そのあとの話は、まるでそれまでの話の焼き直しで、おなじ話を二度聞かされているようなものだった。貴族や豪族が、王族に代わっただけで、やっていることは変わらなかった。使った毒薬や手際のよさだけがわずかにちがっている。

 それだけだった——


「王女になって、すべてが手に入ったと思ったの……」

 ミロンダは目をふせた。


「でもね、ほかの親族たちがそれを許さなかったの。まだ先王は存命でしたから、その跡目争いに巻き込まれたのよ。直系である、長男である、という正当な権利があっても、予断を許しませんでしたわ」

「その争いに負けたのですか?。負けてこのダンジョンに追われた……」


「ご冗談を。わたくしがそんな連中にしてやられるとでも?」

「あ、いえ……」


「まずはわたくしの身の回りの世話をしてくれていたポーラットという、かわいいメイドを処刑いたしました」

 ミロンダが事務的に言った。だがわたしには彼女がにやりと笑ったように見えた。

「腕と脚をもいで、おおきなかめのなかに放り込んでやりましたわ」

「ど、どうして、そんなことを……」

「義妹のスパイでしたの」

「だからと言って、殺さなくても……」


「ふふふ……死んでなんかいませんわ」

 ミロンダは口元に手をやって笑った。

「あの子、腕も脚もない状態で、一年ちかく生きてましたもの。糞便にまみれてね、ほんとうに汚い瓶の中から頭だけだして…… わたくし、ときおり手ずから食事を食べさせてあげましたのよ。やさしいでしょう? それに一ヶ月に一回は糞便塗れのかめを、下の者に命じて洗わせましたわ」


「そんな……」

 わたしはその彼女の運命を思いやった。

 腕も脚も切断されて、瓶のなかに座らされ、首から上だけを晒されて生かされた、そのうら若いメイドの心境はいかばかりだっただろうか……


「でもね、あの子ったら、ずっと『殺して、殺して……』ってうるさいったらないの。こんなに世話をしてあげてるのに、失礼ったらないでしょう?」

 ミロンダはいたずらっぽく片目をつぶって言った。


「だから、殺してあげなかった」


「え?」

 自分でもまぬけな反応だと思った。

 気づかないうちに、はやく死なせてあげて欲しいと、いつのまにか思わされてしまっていたからだ。


「けっきょく、あの子、自分で死んだわ。かめを洗っているときに、窓をやぶって飛び降りてね。あのからだでよくも、まぁ動けたものだ、と思うわ」


 わたしはからだだけでなく、感覚もしだいに麻痺してきたのではないか思えてきた。ミロンダのことばに、それほど動じなくなってきている自分に気づいたからだ。ショックも怒りも嘆きも感じない。


 もしかして霊とことばを交えると、人間性をうしなっていくのだろうか——


「でも、わたくしを裏切る者は、あとをたちませんでしたわ」


「なかでも、ポーラットをさしむけた義妹いもうとのクーシェには手を焼きましたわ。なかなか尻尾をつかませませんでしたからね、でもわたしの潜り込ませた密偵たちのおかげで、わたしの暗殺計画を事前に察知することができて、ようやく逮捕できましたの」


「そ、そのクーシェという方はどうなったんです……?」

 わたしはおそるおそる尋ねた。


「ああ、死刑判決を出させましてよ。あの子は串刺し刑に処してあげましたわ」

「串……刺し……ですか……」


 ミロンダが顔を輝かせて言った。

「ご存知ですか? 通常の串刺し刑ってね、死刑執行人が先の尖った杭を、肛門から口をめがけて一気に貫くんですよ。でもそれだと、杭の先端に内臓がぐちゃぐちゃに引き裂かれて、簡単に失血死してしまうのですよ。つまらないじゃありません?」


「つ、つまらない?」

「ええ。だって、あの子はわたくしの暗殺を先導したのですよ。簡単に死なせるわけいかないでしょう? そんなんじゃあ、わたしの恨みって晴れないじゃありませんか?」


「わたくしのやり方はね、先の丸まった細い杭を使いますの……」

 ミロンダが両手先でゆるやかなカーブを描いてみせた。

「それを肛門から慎重にさしいれるんです。そうするとね、自分の体重ですこしづつ、杭は臓器をゆっくりと押しのけながら刺さっていくの。死ぬまで3日くらい、焼けるような痛みにのたうち回るわ」


「わたくし、杭に刺さったクーシェを前に、三日間、お茶をして語らい合いましたわ。まぁ、からだのなかを杭が貫いていますから、あの子、なぁーーんにもしゃべれませんでしたけどね。あはははははは……」

 けたけたと笑うミロンダに、わたしは戦慄する思いだった。だが、それを彼女に悟られるわけにはいかない。


 いますぐこの場を立ち去りたい——

 恐怖と憤怒がないまぜになった気持ちが、ぐるぐると腹のなかでうごめき、反射反応で嘔吐えずきそうになった。


「あらあら、吐いてはもったいありませんよ。もう一切れ食べられます?」

 そういいながらフォークに刺した肉を、わたしの口元に運ぼうとした。

 わたしはかぶりをふって、それを拒否した。

 ミロンダは残念そうな顔をして、白い靄のなかに消えていった。



 次に現われたときミロンダは、肉を口に運んでくれながら、そのあとの話をした。

 

 大王がみまかり、自分の夫が王になると、彼女はその後、政敵になりそうな人物に濡れ衣を着せては、次々と処刑していった。そのあいだに女王の権限は王と同等以上なほどに拡大し、彼女のひとことでどのような量刑になるかが決まるほどになっていた。


「『皮剥ぎの刑』は騒々しいから、あまり好みではありませんでしたわ」

 ミロンダはまるで料理の付け合わせの話でもしているように言った。


「からだ中の生皮をはぐから、あざやかな薄紅色の真皮がまるみえで、とてもきれいなんですのよ。でもね、風がちょっと吹いただけで痛いらしくて、ぎゃーぎゃー悲鳴をあげるんですの。そのくせ大騒ぎのわりには、なかなか死なないんですよ。何日も死ぬのを待つのものだから、わたくし飽きちゃって……」

 

「その点、『八つ裂きの刑』はすぐに終わるからよかったわ。でもね、あれって、ちゃんと八つ裂きにならないんですのよ。わたくし、がっかりしました。牛や馬に同時にひっぱらせても、たいがい腕か脚が先にとれてしまって。そのたびに何度もやり直すのですから……」


 彼女は食事のたびに、自分がおこなった刑の話を楽しそうに話した。

 釜ゆでの刑、鋸びきの刑、磔の刑、腹切り、打ち首——

 わたしには、どれほどむごたらしい刑、どれほど苦痛な拷問を聞いたかわからなかった。


「でもね」

 ある日、ミロンダが言った。

「ひとつだけ、やっていない刑があることに気づいたの。『中の国』っていう東のほうで行われていた刑。この世で一番、残酷な刑だって聞いたわ」


「ど、んな刑……なんだい……」


「ど、んな刑……なんだい……」


 この頃になると意識がとぶようになったし、なんだかからだもなにもかも麻痺して、会話するのも億劫になっていた。それでもミロンダはきまった時間にきて、わたしに食事だけは与えてくれた。


「心残りだったわーー。それを執行する前に、反乱がおきたの……」

 ミロンダの顔が悔しげにゆがんだ。

「それで、わたくし、反乱軍につかまって、このダンジョンに閉じこめられたのよ……」

 自分のことだけをしゃべり続けるミロンダに、わたしはもう一度質問した。

「どんな……刑……」


 ドォォォォン!!


 そのとき耳をろうするような轟音が、よどんだダンジョンの空気を震わせた。

 同時にあたりをおおっていた白いもやが、ふきとばされていき視界が一気にひろがった。

 たちまちミロンダのからだが霧消していく。


 通路の両側から王立軍の制服に包まれた兵士たちが、何人も走ってくるのがみえた。うしろのほうに、パーティーの仲間たちの顔がのぞきみえる。


 たすけにきてくれた——


 わたしのまわりで、怒号にも似た声が飛び交いはじめた。

「救護班を!」

「それより治癒魔法のできる術者をよこせ!!」

「ポーションを! 回復系ポーションを!!!」


 わたしはなぜ、そんなにも医療兵たちが叫んでいるのか、わからなかった。

 からだが麻痺していて動かしにくかったが、意識はしっかりしているし、ちゃんと食事をとっていたから、体力が衰えているとは思えなかったからだ。

 

 忙しく立ち働く医療兵たちの陰から、パーティーの仲間の姿が見えた。わたしは彼らにむかって精いっぱいの笑顔をむけた。


 魔導士コルトスはすまなさそうにうつむき、コボルトのテックは泣いていた。

 戦士コーン・ロッド、ハーフ・オーガのボヲんゾは、心配そうな顔つきでこちらを見ていたが、弓使いのマーロンは見ていられないとばかりに、あからさまに顔をそむけていた。


 こんなにもわたしは、仲間たちに心配をかけたのか……

 そう思うと、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。


 ふいにからだがふわりと浮いた。

 浮遊魔法を使う医療兵が数人で、わたしのからだを浮かせたことがわかった。

 半身を起こしたそのままの状勢で、からだが宙を移動していく。


 おおきな吹き抜けを通り抜けて、上の階層へ上昇していこうとしたときだった。鏡面のような素材でできた壁に、自分の姿が映しだされた。


 うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……


 その瞬間、わたしは悲鳴をあげていた。



 わたしのからだは、いたるところの肉を、ぎ落とされていた——


 肩、腕、胸、腹、脚—— 

 見えているあらゆる部位に、鋭利なものでえぐられた痕があった。とくに左上腕は骨がむきだしになっており、その骨に前腕がかろうじて繋がっているだけだった。

 今にももげ落ちそうだ。 


 そして顔——

 見知った自分の顔では断じてなかった。

 鼻は鼻腔があらわになるほどに削がれ、両耳ともなかった。頬は口腔が一部見えるほどにえぐられ、くちびると呼べる部位は完全に消失していた。


 あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ————


 わたしの悲鳴はとまらなかった。たぶんずっと叫んでいたはずだ。

 声がでていたかはわからない。

 だが、おぞましい自分の姿をみて、なんらかの反応はしていたのはまちがいない。

 

 もしそれが自分の勘違いだったとしたら——

 自分は人間であったことを忘れるほどに、感情が鈍磨していたか、もうすでに人間ではなくなっていたのかもしれない。


 だが、それはない。


 だからわたしは叫んでいたはずだ。

 のどが涸れ果てるほどに——


 と、同時に思いだしていた。

 はるか東方の『中の国』で行われていた、この世でもっとも残酷な刑のことを……


 『凌遅刑りょうちけい』——


 人間の肉体を死なないように、うすく削っていく刑。

 削る部位によって専用の刀まであると聞いた。受刑者が死に至るまで、数日かそれ以上にわたって執りおこなわれる。ときにその部位は数千ヶ所に及ぶ。

 そしてなによりも、その削った部位を受刑者に食べさせることもあったという——


 わたしの脳裏にミロンダのうっとりとした目がうかんだ。

 人助けをおこなえた充実感あふれる笑顔と、最後の心残りをみずからの手で執りおこなえた、恍惚に打ち震えた愉悦の表情。

 それがないまぜになったのが、あの濡れた眼だ。


 冒険者の意志を打ち砕く——


 わたしはあの老人が言ったことばを思い出した。

 

 ああ、そうか、そういう意味だったのか。

 老人のことばどおり、わたしは、すっかり挑戦する気持ちをうしなった。

 もう旅にでることはないだろう。


 こんなからだではもう旅などできないから?

 あんな思いをしたせいで、冒険が怖くなったから?


 いやちがう。けっしてそうではない。

  

 その逆だ。


 わたしはもっとゾクゾクする目標を見つけたのだ。


 そう、それは悪徳令嬢ミロンダのようになりたいという願望。

 いままで追い求めてきた『正義』とは対極にある、『悪徳』を思う存分にきわめたいという欲望——


 わたしは『悪徳勇者』になりたいのだ。


 生前の……いや、死んだあとまでもあれほど悪辣あくらつでいつづける、ミロンダくらいの『悪徳』でありたい。

 若者の希望や夢を打ち砕いて、熟練者のつかみかけた望みを消し去り、老練な者のささやかな栄光を踏みにじる。

 なんと胸躍るような、たくらみだろうか。絶望に沈むひとびとの顔が、いまからまざまざと浮かぶ——

 ああ、からだが全快する日が待ち遠しい。


 わたしは笑いがとまらなかった。声帯をふるわすことができなかったが、たぶん、わたしはケタケタと笑っていたはずだ。横につきそっていた医療兵たちが、おどろいた顔でわたしの顔を覗き込んでいたからだ。


 それでもわたしは笑いをとめることができなかった。


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