第352話 ターニングポイント(2)
史実のオスカー・トラウトマンは、ドイツからの駐中公使として日中戦争講和のための仲介を担っていた。もっとも、当時ドイツは中華民国との関係を強化する方針だったため、常に中国にとって有利な、日本にとっては不利な条件での仲介を行う。その為、トラウトマン和平工作と呼ばれた一連の活動は、日本の許容できる内容では無く結局実を結ぶことは無かったのだ。
今世においては日本と中国が対立することがほとんど無かったため、トラウトマンはドイツと中国との関係強化のみに注力していた。しかし、ナチスの選民政策が目立って来たため、中国もドイツと距離を置くようになりトラウトマンの活動はそれほど実を結んではいない。
「トラウトマンに辻政信か・・・・。そいつらが汪兆銘をそそのかしたと言うことか。しかし、既にナチスドイツは崩壊している。トラウトマンはいったい誰の指示で動いているんだ?」
ドイツが無条件降伏を受け入れてからは、ドイツの在外公館の仕事は自国民の保護のみで、それ以外の外交と呼べるような業務を行ってはいない。それにも関わらず、トラウトマンは辻に資金を提供し、何らかの活動を続けていたことになる。
「どうやら、ドイツ本国からではない別ルートからトラウトマンのところに資金が流れていたようだ。それを原資として暗躍していたみたいだな」
「ということは、その別ルートが真の黒幕か?それはどこだ?」
「キューバだ」
「え?キューバが?何の権益もなさそうだが?」
高城蒼龍は有馬の返答に納得が行かないという表情を見せる。キューバはカリブ海に浮かぶ小国であり、中国情勢に何ら関わり合いが無いように思えたからだ。
「ああ、キューバから葉巻が中国に輸入されている。その一部はドイツの商社を通じて輸入されているんだ。そして、キューバは受け取った代金を裏金として、トラウトマンに提供していたみたいだな。しかし、これは本当の黒幕を隠すための欺瞞だろう。ここからは何の確証も無いが、おそらく、キューバに命じているのはアメリカだ。それ以外には考えられない」
キューバからトラウトマンに裏金が渡っていることを、KGBは以前から掴んでいた。しかしKGBの分析チームは、ただ単に商取引を円滑にするための賄賂だろうと判断し、この情報を上層部に報告していなかったのだ。
この当時のキューバはアメリカの保護国から独立国になったばかりで、世界情勢に何ら関わることの無い小国だ。その為、その活動を警戒することが無かったのだ。しかし、実際にはアメリカの属国と言って良く、キューバからの資金は、アメリカがキューバに命令して提供していたのだ。
「いずれにしても、汪兆銘から何らかの声明が出るだろう。それを待つとしよう」
1941年12月7日20時(東京時間)
中華民国政府の実権を握った汪兆銘から、声明が発表された。
「共産党軍とアメリカ軍による民衆虐殺を見過ごすことは出来ない。現時刻をもってアメリカ軍に対し、中国国内での作戦の即時中止を求める。そして、我が中華民国政府は日本軍の協力のもと、共産主義勢力の侵攻を防ぎ、早期停戦を目指す。明日午前6時より、関東軍(日本軍清帝国駐留軍)第44軍が我が軍と共に共産党軍の排除を開始する」
この汪兆銘の声明に、日本政府と軍の中枢は驚愕する。清帝国に駐留している日本陸軍第44軍が中華民国に進駐すると汪兆銘が発表したからだ。
「すぐに第44軍の草場中将を呼び出せ!どうなっている!大本営はそんな決定はしていないぞ!第44軍に何か動きがあれば、すぐに中止させるんだ!」
閑院宮参謀総長が額に青筋を立てて秘書官に怒鳴る。大本営が知らないことを、現地軍が勝手に決めて良いはずなど無いのだ。もし第44軍に動きがあるとすれば、これは反乱を疑うべき事態だった。
「参謀総長!第44軍と一切連絡が取れません!軍用回線も一般回線もだめです!現在第3軍を現地確認に向かわせているとのことです!」
陸軍参謀本部の面々は、一向に入ってこない第44軍の情報に皆いらだっていた。栄えある皇軍が反乱を実行したとなれば、1932年のクーデター事件以来の大失態だ。
参謀総長は、万が一の時は腹を切ることも覚悟し、妻に新しい下着を持ってくるように連絡をした。
1941年12月7日23時(東京時間)
関東軍第44軍と連絡を取ることが出来た。
「いったい何があったんだ!」
「はい、参謀総長。一部の将校が反乱を起こしたようです!草場中将を人質にとって偽の命令を発しようとしました!その時に、外部との通信を全て遮断したようです!」
「反乱だと!馬鹿な!それでどうなったんだ!」
「はい、一部の部隊が兵舎に立てこもっているようですが、草場中将も救出されて鎮圧に向かっているようです!」
「鎮圧に向かっているんだな!わかった。とりあえず、現状を陛下に報告する」
1941年12月8日午前0時(東京時間)
大本営
「陛下、大変申し訳ありません。関東軍第44軍の一部将校が反乱を企てたようです。現在は鎮圧に向かっており、司令の草場中将も負傷はしているようですが救出することが出来ました」
参謀総長は天皇に対して最敬礼をし、現時点で把握していることを述べた。
「うむ、草場が救出されたことは僥倖であった。では、第44軍が中国に進駐するという情報は誤りということだな」
「はい、陛下。現在情報を確認中ですが、草場中将はそのような命令を発してはいないとのことです。反乱部隊が汪兆銘とつながっていた可能性はありますが、それも調査中です」
この報告を受けて日本政府は、汪兆銘の声明は誤りであり国連決議の無いまま中国に進駐することはあり得ないと発表する。そして、汪兆銘と直接連絡を取ることを試みたが、現時点においてもそれは実現していなかった。
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