第338話 インドネシア独立(2) 

「おや、英仏が許さないとでも?何を根拠にそのようなことを?」


 吉田はもともと細い眼をさらに細めてヘルブランディー首相を睨む。そこには既に勝者の貫禄が見えていた。


「ヘルブランディー首相、このような重要事項を英仏に無断で持ちかけることなどあり得ませんよ。既に英仏の合意は得ています」


「そ、そんな、まさか・・・」


「我が国は、人種差別の撤廃と国際平和を心より願っているのです。それにインドネシアの石油はインドネシア人の物ですよ。間違ってもオランダ人の物では無い。他国を力で支配する者は、逆に他国から力で支配されても文句は言えないのではないですか?アジア人を差別し支配している貴国に対して、救援を差し伸べるべきではないと過激なことを言う国民もいるのです。正直、ドイツの支配から貴国を救うメリットを感じていない日本人は多い。英仏は日本のお願いと理念を理解してくれました。彼らは喜んで植民地の解放を約束してくれたのですよ。同じヨーロッパの国である貴国に、その崇高な理念が理解出来ないとは思いたくないですな」


 ヘルブランディー首相は立ち上がったまま吉田を見下ろす。その目には血管が浮き出ており顔を真っ赤にしていた。顔をゆがめ奥歯を噛み、全身が怒りに震えているのが解る。


 コンッコンッ


 その時、応接室のドアをノックする音が響いた。


「会議中、失礼いたします。イギリス首相チャーチル卿がお見えになっております」


 秘書官が恭しく一礼をして、チャーチル首相の来訪を告げた。ヘルブランディーはチャーチルの急な訪問に言葉を失ってしまう。そして、血走った目で吉田を睨んだ。


 吉田はニヤニヤとしたいやらしい笑みを浮かべて、ヘルブランディー首相を見返す。


 ――――


「突然訪問をさせてもらってすまないね、ヘルブランディー首相。貴国と日本との会談が行き詰まっているんじゃないかと思ってね、助け船を出しに来たのだよ」


 チャーチルは秘書に案内されて、吉田大使の左側の席に腰を下ろした。そして、懐からキューバ産の葉巻を出して火を付ける。


 吉田もチャーチルも頬の肉付きが良く、その風貌はまるでブルドックのようだとよく評される。


 ヘルブランディーは葉巻を吸うブルドック二匹を相手に、いやな予感しかしていなかった。


「チャーチル首相、助け船とおっしゃられたが、それはどちらに対しての助け船ですかな?」


「もちろん、両国に対しての助け船ですよ。ヘルブランディー首相、日本の、いや、国際社会の要請を受け入れることこそが、オランダの発展に繋がるのだとご理解ください。もはや、力で他民族を支配するような時代は終わったのですよ。これからは国際協調の時代です」


 チャーチルも、吉田に負けじといやらしい笑みを浮かべてヘルブランディーに返答した。


 ヘルブランディーは“チャーチルよ、お前もか!”と言わんばかりの形相で睨みつける。日本の圧力に屈して植民地を手放す決断をしなければならなかったイギリスにとって、インドネシアの支配を諦めないオランダが憎いのだろうと考えた。つまり、単純にひがんでいるのだ。イギリスも植民地を手放すのだから、オランダも手放せと言いたいんだろう。しかし、海千山千の腹黒ブルドック二匹を相手にするには、ヘルブランディーの分が悪すぎた。


「チャーチル首相、あなたはこの一年でまるで別人の様に変わられた。七つの海を支配していた国の宰相とは思えませんな」


「ははは、変わりましたかな?それは嬉しいことです。私も気付いたのですよ。平等と平和がどれだけ大切なことなのかと言うことにね」


 もちろん、チャーチルは本音でそう思っているわけではない。オランダが石油の出るインドネシアを支配し続けることが気に入らないだけだった。チャーチルは“オランダにだけいい想いはさせない”という確固たる想いに支えられていた。


 その言葉を聞いたヘルブランディー首相は、凝然としてチャーチルを睨む。チャーチルと以前から親交のあったヘルブランディーには、チャーチルの本音が透けて見えていた。それにも関わらず、いっそすがすがしいくらいの偽善を臆面も無く披露するチャーチルに、ある意味尊敬の念すら覚えてしまった。政治家はこれくらい厚顔無恥でなければつとまらないのだと。


「まあ、ヘルブランディー首相。貴国もインドネシアの油田を失うことは、経済的に非常に辛いことだと思います。そこで、今日は我が国から良い知らせをお持ちしました。こちらの地図をご覧下さい」


 吉田はそういって、脇に置いていた鞄から地図を取り出してテーブルに広げてみせる。そこには北海を中心として西はイギリス、東はデンマークまでが収められており、そして、北海の所々に赤い×印と○印が記載されていた。


「これは、何の地図ですかな?」


 ヘルブランディーとチャーチルは少し体を浮かせて地図を凝視する。海の中に印が付けられているが、これは、機雷の敷設場所を示しているのだろうか?そんな考えが二人の頭には浮かんでいた。


「これは、北海における海底油田とガス田を示した地図です。埋蔵量は500億バレル以上と推定されます」


 二人は500億バレルの埋蔵量という言葉に固まってしまった。そしてゆっくりと首を吉田の方に向け、目を丸くしてそのブルドッグ顔を凝視する。


 吉田は二人の驚いた表情を見て満足げな笑みを浮かべ、葉巻の煙を吐いた。まさに勝者の余裕を体現した態度だ。


「吉田大使、それは本当の事ですか?しかし、本当だとしたら、どうやってこれを調べたのですか?」


 史実では、北海油田や大規模なガス田が発見されたのは1960年代のことだ。それまでは、北海沿岸地域で、天然ガスがいくらか産出される程度だったのだ。

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