第336話 モスクワ最終決戦(4)

 低く垂れ込めた雲の下、トリコロールの国章を付けた九六式主力戦車が車列をなして進んでいる。


 進軍しているのは、ロシア帝国陸軍第43戦車連隊だ。そして、その戦車を後方のアパートの窓からスコープで見ている兵士が居た。市街戦用の迷彩服を着て、頭からはカモフラージュネットを被っている。息を殺し獲物が出てくるのをじっと待っているのは、ロシア帝国陸軍第13狙撃大隊所属のジーナ・クルシェルニツカ少佐だ。


 進軍するロシア軍戦車に対して、ソ連軍は歩兵による肉薄攻撃や、ビルの上階から対戦車地雷を投下するといった作戦を展開していた。ジーナには、こういった脅威から戦車部隊を守ることが命じられている。


 1935年清蒙国境紛争での初陣以来、ジーナのスコアは既に500を超えている。フィンランド戦線においては、シモ・ヘイヘとスコアを競い合った。そして、フィンランド方面が落ち着いた後は、ロシア陸軍と共にシベリアを西進する作戦に従事していたのだ。


 これらの作戦において、ジーナは傑出した戦果を出し続けた。殊更その戦果を誇示したわけではないが、誰からともなくその噂は広まり、ロシア軍に凄腕のスナイパーが存在するという戦場伝説が生まれていた。


 曰く、その狙撃手は2,000mを超える距離で正確に眉間を撃ち抜ける。

 曰く、単独で雪山を1日20km以上移動できる。

 曰く、12.7mm対物ライフルを軽々と担いで野山を駆ける。

 曰く、血も涙もなく、敵であれば赤子でも眉一つ動かさずに狙撃する。

 曰く、ロシア人と日本人のハーフで、身長190センチの巨躯を誇る。

 曰く、その顔を見た者は誰も居ない

 曰く、その名は『デューク』と言う。


 2,000mを超える狙撃能力以外正確な伝承ではないが、戦場では尾ひれがついてくるものだ。そして、ソ連兵はその尾ひれに恐怖する。


 ジーナは味方戦車連隊の周りに建っているアパートの窓を、順次スコープで確認していった。敵兵が隠れていれば、躊躇無く排除する。また、敵狙撃兵にも注意を払わなければならない。ソ連軍にも伝説的な狙撃手が存在する。『狙撃の女王』と呼ばれる女性狙撃手もこのモスクワで活動していることが確認された。噂では、ジーナを狙撃することを目的としたチームが編成されたらしい。ソ連軍にとって、デュークと呼ばれるロシア軍狙撃手の排除は、戦意維持のためにも必ず達成されなければならなかったのだ。


 ジーナのスコープに、動く何かが映り込んだ。600m先のアパートの窓を、ジーナは注意深くスコープで覗く。その窓からは、15歳くらいの少女と12歳くらいの少年の姿が見えた。姉弟だろうか。子供たちはクレムリン宮殿で人質に取られていると聞いていたが、12歳以上の少年少女の一部は兵士として動員されていることも知っている。ジーナには、なんとなくこの少年少女が排除するべき敵だろうと感じられていた。


 そしてその二人は眼下のロシア軍戦車を目視した後、しゃがんだのか窓から見えなくなった。


 ジーナは『ふぅ』とため息をつく。それでいい。このままロシア軍に恐怖して、家の中で怯えていれば良い。そうすれば、生き残れることもある。ジーナは“的(まと)”に対して感慨を示すことはほとんど無いが、それでも年端のいかない子供を射殺する事には忌避感があった。ゴーリキー市(現ニジニ・ノヴゴロド)の戦いでもウラジーミル市の戦いでも少年兵が多数動員されていて、ジーナはその排除にあたった。彼らは軍服も着ておらず、武器を手にしていることを確認するまで市民かゲリラ兵かの区別はつかない。その為、ロシア軍では少年兵による損害が拡大していたのだ。


 ジーナは、その姉弟が顔を出さないことを祈ってスコープを向けていた。そして数秒間、その窓に変化はない。もう大丈夫かと思った瞬間、窓の奥に動くものを発見してしまう。


 必死の形相で弟に言葉を投げかけている姉の姿が見えた。弟は泣きそうな顔をしながら姉の指示に従っているようだった。そして、二人は顔よりも大きい円盤状の物体を持ち上げて、窓枠に乗せようとしていた。ジーナはその円盤をすぐに理解する。あれは対戦車地雷だ。


 タンッ


 ジーナが潜んでいたアパートの室内に、一回だけ乾いた破裂音が響く。そしてその次の瞬間、600m先の窓から見えていた少女の頭が半分吹き飛び、二人が持ち上げようとしていた円盤は室内に落下した。そして、その部屋は大爆発とともに吹き飛んだ。


 大量のがれきが九六式主力戦車の上に降り注いだが、そんな事を気にすることもなく戦車連隊は歩みを止めない。ジーナの脇で測距スコープを覗いていたスポッターが、無線で脅威を排除した事を伝えている。いつもの仕事をいつものようにこなすだけだ。ジーナは左手で銃のボルトを引いて次弾をチェンバーに装填した。そして眉一つ動かすことなく、次の脅威を探すためにビルの窓枠を順番に確認していた。

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