第313話 宋慶齢(2)
「共産主義は、どんな小さな異物も認めることはありません。しかし、今回は停戦に合意し総選挙に参加します。もしかすると、良い方向に変化しているのかも知れません。それを、うまくコントロールできるのは、宋夫人、あなただけなのです。孫中山先生もそれを望んでいらっしゃると、私は思っています」
宋慶齢(そうけいれい)は手に持ったカップの中の紅茶を見つめる。そして、少しぬるくなったそれを飲み干した。
「高城さん、紅茶をもう一杯いかが?」
宋慶齢は席を立ち、魔法瓶に入ったお湯で新しくお茶を入れた。そして、二つのティーカップに注ぎ、テーブルの上に置く。
「宋夫人、よろしかったらこちらを召し上がって下さい」
高城蒼龍はそう言って、お菓子の入った箱をテーブルの上に置いた。宋慶齢がその箱の蓋を開けると、月餅(げっぺい)が二つ収まっている。
「これは、月餅ね。なつかしいわ。時々あの人(孫文)が作ってくれたの。遠慮無く頂くわね」
宋慶齢は月餅を一つつまんで口元に持ってきた。そして、一口噛み、二口噛んで中のあんこの味を堪能する。
「・・・・・・・・・これは?」
月餅のあんこを少し口に含んで、ゆっくりと舌の上で味わう。宋慶齢は何度も何度もその味を確かめた。
そして、宋慶齢の目からは一筋の涙がこぼれる。
「この月餅は、あの人が作ってくれた月餅だわ。同じ味がする・・・・。あの人は、月餅の作り方を“国家機密だ”って教えて下さらなかったの。あの人が作った月餅は、他の月餅とは違う味がするのよ。甘さが違うの。あれは砂糖と小豆の味だけじゃなかった。何かを加えていたのだと思うわ。けど、何を加えていたのか解らなかった。高城さん、どうしてあなたはこの味を作ることが出来たの?どうしてあの人の味を知っているの?」
高城蒼龍は、テーブルの上にある月餅を懐かしい眼差しで見る。
「私の東京高輪の自宅には、大きな柿の木がありました。よく干し柿を作っていたのです。いつかの秋に、孫中山(そんちゅうざん)先生(孫文のこと)がたまたま通りがかって、その干し柿を所望されたのです。そのまま食べるのではなく、料理に使いたいとおっしゃっていました。私は柿をお分けする代わりに、何の料理に使うのか、そして、その調理方法を教えて欲しいと言ったところ、先生は快諾してくれました。新橋の中華料理店に案内されて、そこでその月餅の作り方を教えてもらったのです。先生の隠し味は、柿だったんです」
宋慶齢は高城蒼龍の話を聞きながら涙を流し続けた。愛おしいあの人と目の前に居る高城蒼龍が昔に出会っていて、そして、あの人の味を受け継いでいたのだ。もう二度と味わうことが出来ないと思っていた味。それを高城蒼龍は私にもたらしてくれたのだ。
「紅茶の種明かしもしましょう。この茶葉は広東鳳凰山の南向きの斜面でとれる茶葉で作った「鳳凰単叢」という紅茶です。孫中山先生の故郷のお茶ですね。悠久の歴史を感じられたのではないでしょうか?」
宋慶齢はティーカップに口を付けたまま目を閉じている。愛するあの人の月餅、あの人の故郷のお茶。もう二度と会うことの出来ないあの人の息吹を、いまここで感じることが出来ているのだ。
「孫中山先生は私に、三民主義を熱く語られました。そして、特に重要なのが“民生主義”だとおっしゃられたのです。経済的な不平等を改善し、社会福祉を増進させなければならないと。だから、先生は共産党も排除しないと言って、宥和路線をとったのだと思います。しかし、共産党の行きすぎた教義は民を不幸にしています。もしこれを放置すれば、必ず中国国内は酷いことになるでしょう。それを防いで、コントロールできるのはあなただけなのです」
宋慶齢は目をゆっくりと開き、ティーカップをテーブルに置いた。
「宋夫人。先生の隠し味が“柿”であったように、この中国大陸の隠し味はあなたです。あなたがキャスティングボートを握るかどうかで、中国の味付けはがらっと変わってしまうと思っています」
黙して聞いていた宋慶齢が口を開く。
「まさか、この国の“国家機密”が柿の実だったとはね。思いもよらなかったわ。あの人は私にも三民主義を熱く語ってくれたわ。あんなに情熱のある人には今まで出会ったことが無かった。民を愛し、私を愛してくれたの。でも、あの人の理想はまだ実現出来てはいない。そうでしょ?高城さん」
「はい、残念ながら未だ道の途中です」
「そう、道の途中なのよ。でも、私はその道を最後まで歩みたかった。あの人と一緒に歩みたかったの。でも、あの人は死んでしまったわ」
「いえ、先生はまだ生きていますよ。少なくとも、あなたと私の心の中には」
宋慶齢は高城の目をまっすぐに見つめた。その黒い瞳の奥に、あの人と同じ情熱が見える。
―――― まぼろしだろうか ――――
目の前にいる高城蒼龍と孫文が重なって見えてしまう。おそらく、高城蒼龍はあの人と同じ理想を持っているのだと、宋慶齢にはそう思えた。
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