第312話 宋慶齢(1)
1941年1月
中華民国臨時憲法が公布施行された。
主にうたわれたのは基本的人権の尊重と五権分立、選挙制度についてだ。そして、2月に総選挙を行い、与党となった政党の元で正式な憲法が制定されることになった。
共産党は当然私有財産の制限と農地改革を訴えた。地主から土地を買い上げ(実質取り上げ)て、共同農場を作るという主張だ。また、工場も国有化し資本家では無い労働者が運営するとされた。そして、アジア経済連合への加盟は行わず、独自路線を歩むと訴えかけた。
それに対して国民党は、自由経済と基本的人権の尊重、そしてアジア経済連合への正式加盟を訴えた。
香港
「宋(慶齢)夫人、是非ともあなたに出馬して欲しいのです」
高城蒼龍は香港に赴き、宋慶齢(そうけいれい)と会談をしていた。
※宋慶齢 蒋介石の妻である宋美齢の姉。中華民国建国の父である孫文の妻。
宋慶齢は、孫文の遺志を継いで国民党の要職を歴任していたが、孫文の「聯俄容共(ソ連との協力、共産党の容認)」を認めない国民党から離れ、香港に移り住んでいたのだ。
「高城さん、あなたとお会いするのは何回目かしら。いつもおいしい紅茶を持ってきてくれてありがとう。あなたの笑顔を見るのはとても嬉しいの。世に捨てられたこんな女を訪ねてきて下さるのは、いまではあなたくらいだわ」
宋慶齢はそう言いながら、高城蒼龍が持ってきた茶葉で入れた紅茶をすする。
「あら、これは初めての紅茶ね。どちらの紅茶かしら?」
宋慶齢は目を細めて高城蒼龍に問いかけた。
カップに口を付けた瞬間、今までに味わったことの無い芳醇で深みのある味に驚いた。ダージリンでもなくアッサムでも無い。この芳醇な香りと味の向こうには、悠久の歴史を感じさせるような、そんな紅茶だった。
「宋夫人、種明かしは最後にさせていただきます」
「あら、意地悪なのね。こんなにおいしい紅茶を飲むのは初めてよ。是非とも教えて下さいね」
宋慶齢は現在47歳。この当時の同年代の女性に比べて遥かに若く見える。そして、宋慶齢・宋美齢・宋靄齢は「宗家三姉妹」と言われ、それぞれに要人と結婚し、中国の歴史に強い影響を与えた。
「宋夫人、今回の総選挙に際して、あなたに政党を率いて出馬して欲しいのです。おそらく国民党も共産党も過半数を取ることは出来ません。そこで、あなたの率いる政党“孫文党“がキャスティングボートを握るのです。そして連立政権を組み、孫中山先生(孫文のこと)のご遺志を政策に反映させましょう」
「あら、高城さんの用意して下さる政党は“孫文党”とおっしゃるの?なんだか、ちょっとあざとい感じがするわね」
「そうですか?“孫文党”の名前を使えるのは、あなた以外にはおりません。かならず一定の議席を確保できるでしょう」
国父である孫文の名前を冠した政党なら、たしかに一定の議席を得ることは出来るだろう。中国人なら誰しも知っている偉人の名前。しかも、孫文の妻が党首を務めるのだ。
「その言い方だと、議席をとること自体が目的のように聞こえるわね。あなたは私を使って何をなさりたいのかしら?」
宋慶齢は高城蒼龍の目をまっすぐに見る。孫文の妻を務め、孫文亡き後は国民党の要職を歴任した女性だ。その眼光は冷たく鋭い。
「はい、宋夫人。あなたには、“優しい中国”を創ってもらいたいのです」
高城蒼龍もまっすぐに宋慶齢の目を見て返答する。その目にも言葉にも迷いは無い。
「“優しい中国”?なんだが漠然とした答えね。それは誰にとって優しい中国なのかしら?」
「もちろん中国の人民にとって、そして世界にとってです。国民党が政権を取ったとしても、共産党が政権を取ったとしても、どちらにせよ反対勢力に対する弾圧が発生するでしょう。もし共産党が政権を取った場合には、積極的に東南アジアの赤化を推し進めます。あなたもソ連に住んでいたときに、ソ連共産党のやり方を目の当たりにしたのではないですか?」
宋慶齢は少し視線を落として昔を思い出す。ソ連に身を寄せていた頃、あのスターリンの大粛正を経験したのだ。そしてその時、宋慶齢は共産主義の“真実”を知った。
「しかし、中国共産党がソ連と同じような事をするとは思えません。自国民に対してあのような酷いことができたのも、スターリンだったからでしょう」
宋慶齢は高城蒼龍から少しだけ視線を外して話す。その瞳には、共産主義に対する迷いが見て取れた。
「それではこちらをご覧下さい」
高城蒼龍は数枚の写真を懐から取り出して宋慶齢に渡した。
「!・・・・・これは・・・・」
それは、中国共産党が支配する延安で撮られたと書いてある写真だった。そして、そこには民衆の前で無残に処刑される地主一家の姿が写っていた。
「これはほんの一部です。共産党はその支配地域でこのような事を繰り返しています。ソ連共産党も、中国共産党も異物を認めないという点では一致しています」
宋慶齢は、中国共産党がこのような事をしていると、うすうす感づいていた。しかし、孫文が“共産党も排除しない”と言ったこともあり、中国共産党にわずかな望みを持っていたのだ。
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