第222話 マルタの嵐(5)

「よお、来たぜ。」


 翌日の夜、志手伍長はミシェルの家を訪ねた。その家は、日本軍連絡所から3kmほど離れた集落の端っこにたたずんでいる。貧しい村の様だが、ミシェルの家はさらにみすぼらしい姿をしていた。


「今晩は、志手さん、小さい家だけどどうぞ。そこに座っててね」


 玄関を入ってすぐの部屋にはキッチンと食卓が有り、その向こうにドアが一つある。家の大きさから推測すると、この部屋と寝室の二部屋だけのようだ。マルタの寒村としては標準的な間取りなのだろう。


 食卓の椅子には、小さい男の子と女の子が先に座っていて、志手の方に警戒心を露わにしていた。


「ミシェルちゃんの弟と妹かい?何て名前だ?」


 志手は子供たちに話しかける。しかし、返答は無かった。


「志手さん、ごめんね。弟と妹はまだ英語はあまりしゃべれないんだよ。ジョルジュにエミリーって言うんだ。仲良くしてあげてね」


 このマルタ島では、歴史的にマルタ語とイタリア語が話されている。1800年からイギリスの支配を受けてはいるが、英語教育はそれほど熱心ではなかったため、就学前の子供はほとんど英語を話すことは出来なかった。


「はい、今日港でもらってきた魚の料理だよ。トンネットっていう魚なんだ。日本にもこれに似た魚があるんだろ?」


 食卓には、オーブンで塩焼きにされた赤身の魚が横たわっていた。トンネットとは、カツオに似た魚だ。志手も、街の食堂で何度か食べたことがある。


 どうやら、売り物にならない小さいトンネットを港でもらってきたらしい。


「へぇ、美味そうじゃないか。じゃあ、早速いただきますか」


 ――――


 ミシェルのお母さんはエミリーを産んだ後、その予後が悪くしばらくして亡くなったそうだ。その後、三人の子供を父親が養っていたが、2年前漁に出てそのまま帰ってこなかった。役所からは遭難による死亡認定がされている。そして、当時住んでいた家は、父親が漁船を買うために借金をした時の担保に取られてしまい、この村の空き家に流れ着いたということだった。


「そうかい、苦労したんだな」


「ああ、でも、弟と妹を養わないとね。贅沢は言ってられないさ。それより、志手さん、明日の朝までは大丈夫なんだろ?」


 ミシェルはそう言って、志手の顔を少し上目遣いで見る。明らかに“誘っている”目だ。


 志手は少し思案した後に、


「でも、兵士の給料は少ないんだ。今日も持ち合わせはそんなに無いよ。それに弟と妹もいるだろ」


 と、ミシェルに告げる。売春の対価になるほどのお金は持っていないということだ。


「いいよ。そんなの。弟と妹は台所に寝床を作ってあるから心配しなくて大丈夫だからさ」


 志手は、ミシェルのその言葉に“やはりそうか”と思う。売春だけなら家まで連れて来ることはない。売春宿以外の売春は、兵隊から現金をもらった後、そこら辺の草むらや林の中で“ヤッて”いる。自宅まで連れて来るのはリスクが伴うので、普通はしない。しかし、ミシェルは自宅まで連れてきてなお、対価はいらないという。そうすると、現金以外の対価を欲していると言うことだ。


 “俺から何か情報を聞き出せれば、それでお金をもらえるんだろうな・・・”


 そんなことを思いながら、志手はミシェルに手を引かれて寝室に入っていった。


 ――――


 志手は、傍らで横になっているミシェルの背中のぬくもりを感じながら、後悔にさいなまれていた。


 “まさか、生娘だったとは・・・”


 俺から何かしらの情報を聞き出せれば、それがお金になるはずだ。志手は、そんな事を思いながら、ミシェルの家計の足しになればと思い、誘いに乗ることにした。どっちにしても志手自身、それほどの機密情報を持っているわけではない。少しだけ情報を渡してやればいいと、そう軽く思っていたのだ。


「あの空母は、エンジンが故障してな、修理のためにちょっとだけ出航が遅れてるんだ。でも、来週頭には出航するらしい。何処に行くかは聴いていないが、南に向かうそうだ。噂では、イギリス艦隊と合同でトリポリとベンガジを攻撃するらしいぜ」


「えっ?」


 ミシェルは突然話し始めた志手に驚く。聴きたかった情報だが、まだこちらからは何も言っていない。


「俺たちみたいな下っ端には、あんまり詳しいことは聞かされてないんだけどな、日本の艦隊は、500km離れた敵の戦艦を同時に10隻撃沈できる。巡洋艦なら50隻を同時に撃沈できるらしいぜ。それに、トリポリとベンガジを攻撃する時は、イギリス戦艦の主砲を使うってもっぱらの噂だ。戦艦の主砲は、それほど命中精度が良くないから、市街地にも相当被害が出るんじゃないかな?あらかじめ、避難させてくれればいいんだけどな・・」


「志手さん・・・あんた・・・・」


「いいってことよ。弟や妹の面倒を見てるミシェルちゃんの気持ち、よくわかるぜ。悪いが、もう帰らせてもらうよ。俺も秘密を漏らしちまったからな。もしバレたら銃殺刑さ」


 志手はベッドから降りて、脱ぎ捨ててあった服を着る。


 これは、志手なりの配慮の言葉だった。ミシェルは自分がスパイであることは、うすうすは感づかれていると思っている。もし、志手が憲兵に連絡をすれば、ミシェルはおそらく逮捕されるだろう。しかし、志手もそれをわかって機密を漏らしたとなれば、同じように罰せられる。だから、ミシェルがスパイだということは黙っているので安心して欲しいと、暗に告げたのだ。


 それに、もしこのまま寝てしまったら、口封じに殺される可能性も考慮した。


「志手さん・・・ありがとう・・」


 志手は、ミシェルにスパイを止めるように忠告しようかどうか悩む。もし、スパイであることがバレたら、イギリス軍によって処刑されるかもしれない。しかし、スパイ組織に“スパイを辞める”と伝えたら、口封じに殺されるはずだ。


 どちらにしてもミシェルの未来は明るくない。


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