第221話 マルタの嵐(4)
1940年4月上旬 マルタ島
「ちょっとこの自転車借りるよ!」
イギリス軍の軍服を着た中年の兵士が、民家の軒先に置いてあった自転車に乗って走り出す。
「軍の連絡で急ぎなんだ!あとで返しに来る!」
その兵士は自転車を立ちこぎしながら、小高い丘の上に登っていく。そして、丘を登り切って少し下りに入ったあたりで、一人の少女が声をかけてきた。
「こんにちは、野菜はいらないかい?」
その少女は、果物や野菜がいっぱい入った大きなカゴを担いで歩いていた。見たところ、農家の娘が畑で取れた作物を港町に売りに行くところのようだ。
「え?あ、あんたが?・・・・あ、いや“野菜なら大歓迎だよ”」
兵士は少し驚いた表情をした後、少女の顔をじっと見つめて返事をした。
「採れたばかりの“大根”があるわよ。あと、“トマト”もね」
少女は大根とトマトがあると言った。しかし、4月上旬のこの時期では、大根はあるがトマトはまだ収穫できないはずだ。実際、少女の担いでいる篭の中に、大根はあるがトマトは入っていない。
「そ、そうか。すまない、慣れなくってな。あんたみたいな少女だとは思わなかった。じゃあ、“大根”をもらおうか」
「はい、じゃあ、この一番大きいのをどうぞ!」
少女は兵士に大根を渡し、代金を受け取る。しかし、その代金は大根一本の値段にしてはかなりの高額だった。マルタ島なら、節約すれば半月は暮らせる金額だ。そして、その代金の中には、折りたたまれた一枚のメモが入っていた。
少女はそのメモのことを気にすることなく受け取り、紙幣と一緒に腰にぶら下げた大きめの財布に入れた。
「はい、兵隊さん、これおつりね」
少女はそう言って、財布から取り出したミノックス9.5mmマガジンとメモを兵士に渡す。
※ミノックス9.5mmマガジン ミノックスが開発した超小型カメラのフィルム
「ああ、確かに」
兵士は少女から受け取った”モノ“を懐に入れて、彼女に顔を近づける。
「沖合に日本の“鯨”が停泊している。一番大きいヤツだ。それが、いつ何処に出航するのか知らせろ、ということだ」
「でも、どうやって?」
「そりゃ、自分で考えるんだな。港には兵隊がたくさん来ているだろ。だれかと“仲良く”なれってことさ」
少女は少し驚いたあと、その表情に不快感をあらわにする。
その不快感を察した兵士は少し肩をすくめて、少女の前で右手を広げて見せた。
「成功すりゃ、これだけ金をくれるってさ」
少女はその5本の指を見て金額を察する。
「かなりだね。わかったわ。やるよ。弟たちを食べさせなくちゃなんないからね」
少女の名前はミシェル(ミハエルの女性名)。ミシェルは幼い弟と妹を養うために、農家や漁師から食料を仕入れて街で売っている。最近は、イギリス軍と日本軍の兵隊達もマルタ島へ立ち寄るため、マルタ島の農家が作っている闇タバコや闇酒なども仕入れて、兵隊達に売っていた。そして、ある程度兵士達と仲良くなった頃に、イタリアの諜報員が接触をしてきたのだ。
※日本軍も、連絡要員を1939年11月から駐屯させていた。
ミシェルは、高額の報酬と引き替えに、英日の兵士から聞いた情報や、ミノックスカメラで撮影した航空機や艦船のフィルムを諜報員に渡していた。幼い弟と妹を養うために。
――――
「志手(しで)さん!タバコを仕入れたよ!いらないかい!」
「ああ、ミシェルちゃん。そうだな。一箱もらおうか」
マルタ島の日本軍連絡所。そのフェンスの向こうにいる兵士にミシェルは声をかけた。いつも闇タバコや闇酒を買ってくれる、気さくな兵士だ。
志手伍長はミシェルからタバコを受け取り、コインを渡す。そして、早速一本、タバコを吸い始めた。
「ミシェルちゃんの持ってきてくれるタバコは美味いねぇ。日本の官製品とはひと味違うね」
「ありがと!志手さん。そういや、おっきい船が来てるんだね。志手さんもあれに乗ったりするの?」
「ああ、あの空母かい?俺はあれには乗らないな。俺の仕事は、あれに乗ってきた兵隊達の上陸手配をしたりとかなんだよ。まあ、雑用係みたいなもんさ。船に興味があるのかい?」
「あ、ああ、港町育ちだからね。ねえ、志手さん、休みとか無いの?休みには家においでよ。なんか料理作ってあげるよ!」
「えっ?」
志手はミシェルからの申し出に驚いた表情をする。たしかに、ミシェルと知り合って数ヶ月が経ち、かなり仲良く話せるようになってはいるが、自宅に男を呼ぶことにはどんな意味があるのだろう?と。
「日本海軍は“月月火水木金金”って言ってな、基本休みはないんだが、日勤が終わった後なら行けるぜ」
「そうなのかい?じゃあ、明日おいでよ!」
「それはいいが、暗くなった頃になるけど、大丈夫かい?」
志手は“暗くなった頃”という部分を少し強調して言葉にした。このマルタ島では、兵隊を相手にする売春宿も存在する。そこで働く職業売春婦だけでなく、村娘が売春をしているという話も聞いたことがある。このミシェルもそういう事なのだろうか?しかし、志手にはどうにも違和感があった。
「あ、ああ、大丈夫さ。じゃあ、待ってるね!」
ミシェルはそう言って、自宅の場所を書いたメモを渡す。そして、小走りに走り去っていった。
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