第172話 北サハリン捕虜収容所(2)
「ここが皆さんの収容施設になります。指定された部屋に入って荷物を置いて下さい。14時から説明を行いますので、13時55分までには中庭に集まって下さい」
捕虜達はそれぞれの部屋に入って荷物を置く。荷物と言ってもほとんど私物は無い。支給された歯ブラシや服が少しだけ。家族の写真を持ち出せた者は幸運だ。
戦争犯罪の嫌疑をかけられた者達は、逮捕され拘置所に移送されたらしい。捕虜を虐待したり殺害した者には死刑が待ち受けていると噂で聞いた。まあ、当然だろう。自分たちはたまたま捕虜と接することが無かったので逮捕はされなかったが、捕虜と接していれば間違いなく虐待をしていた。ソ連にとって捕虜の虐待は、通常業務の一環だった。
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「では、皆さんにこの収容所での生活について説明します。まず、強制労働はありません。労働を希望される方は、いくつかの工場で働くことが出来ます。そして、働いたら、賃金が支払われます」
「えっ?看守殿。賃金がもらえるんですか?」
「ええ、もちろんです。ハーグ条約でも定められています。ただし、現金を持って逃亡されてはいけないので、この収容所だけで使えるお金『ペリカ』で支給されます。貯まったペリカは、皆さんが解放されるときに、1ペリカ=1ルーブルで現金化できます」
基本的な衣食住は無償で保証される。しかし、それは最低限の物なので、捕虜達は働いて賃金を得ることを選択した。
現在ロシアでは、戦時体制への移行に伴い兵器増産のため労働力が不足していた。その為、捕虜達は重要な労働力として期待されたのだ。
捕虜を兵器工場で働かせることはハーグ条約で禁止されているので、パン工場や民生品の製造工場に送られた。そして、そこでの賃金はソ連の平均的な賃金の約5倍も支給されたのだ。
「こ、こんなにも賃金をもらえるのですか?」
「はい。でもロシアは物価も高いので、これくらいはないと生活が出来ないんですよ」
支払われた賃金は、収容所内の売店で自由に使うことが出来た。捕虜達は、お酒やたばこ、雑誌などを買って、捕虜生活を満喫することが出来たのである。
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「それでは、満洲歌劇団のトップスター、李香蘭です!」
蝶ネクタイにタキシード姿の司会者が李香蘭を紹介する。今日は、満洲歌劇団の慰問公演の日だ。
「みなさん、こんばんは。今日は皆さんに会えてとても嬉しいです。満洲歌劇団の演劇を心ゆくまで楽しんで下さい!」
ステージには、とても可憐で美しい少女が立っている。その名は“李香蘭(りこうらん)”。
李香蘭は頑張って覚えた、たどたどしいロシア語で挨拶をする。その一生懸命で可愛い少女の姿に、捕虜達は一瞬で魅了されてしまった。
演目は“アナスタシア”。
これは、アナスタシア皇帝の半生を描いたノンフィクション演劇だ。
少女時代、護衛のアスランと過ごした日々。そして、革命。囚われの身となったアナスタシアを救出するために、命を落とすアスラン。ニコラエフスクで日本軍に救助され、ロシア帝国を復活させ、母国を、国民を救うことを誓うところまでが描かれる。
捕虜達は、命を賭してアナスタシアを助けたアスランに涙した。そして、アスランと自分を重ね合わせる。
“オレも、アスランのように大義のために戦いたい”
男は何歳になってもヒロイズムに憧れるものなのだ。
終幕後、李香蘭がロシア語で歌を披露する。
歌の題名は“聖女たちの子守歌”
これは、戦場の街で傷ついた兵士達を、聖女と呼ばれる看護婦達が手当をする場面を描いた歌だ。
彼女は、俺たちのことを傷ついた戦士だと言う。疲れた体を休め、子供のように甘えなさいと。自分の命を差し出しても俺たちのことを守りたいと言った。そして、俺たちが旅立っていく事になっても、その背中をずっと見つめているのだと・・・。
捕虜達はすぐにわかった。これは、自分たちの境遇を歌詞にした歌だ。激しい戦闘(一方的な戦闘)で多くの戦友を失った。みんな、傷ついた戦士なのだ。
観客席のあちらこちらから、嗚咽が聞こえてくる。ここで捕虜になっている者達は、みな共産党に欺されて戦地に送られてきた。共産党は農民や労働者の為だと言っていた。しかし、それは全部嘘だとわかったのだ。
共産党は農民や労働者から搾取し、幹部達は贅沢三昧。ウクライナでは計画的な飢餓を起こして何十万人も餓死させた。そして、秘密警察を組織して民衆を監視し逮捕する。一度ラーゲリに送られた者は二度と帰らない。
みんな、共産党とスターリンの犠牲者だ。
“彼らは涙を信じない”とはよく言ったものだ。民衆がどんなに苦しくて涙を流していても、共産党はその涙を信じない。そして、涙が涸れ果て、枯れ草の様になって死ぬまで搾取する。
※“彼らは涙を信じない”とはロシアの格言。泣いても誰も助けてくれないということ
そんな共産党の為に、多くの兵士が戦死した。みんな、まったくの無駄死にだった。
自分たちは何としても生き残り、共産党を倒してこのロシア帝国のように豊かな国にすると誓うのだった。
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