第164話 ラーゲリ(3)

「イジィ!イジィ!イジィ!」

 ※ロシア語で 行け!行け!行け! の意


 濃緑のデジタル迷彩服に身を包んだロシア兵が突入していく。既に看守達は戦意を失っており、次々に投降してきた。


 ロシア兵は投降してきた看守を手際よく床に伏せさせ、両手と足をナイロン製の“結束バンド”で縛り上げていく。


 そして、収容されている者達の部屋の鍵を開けて解放していった。


「収容者は一列になって表に出て下さい。体調の悪い人は居ませんか?」


「子供が熱を出してるの。お願い。助けて・・」


「この人、二日前からもう動けないんだ。なんとか助けて欲しい・・」


 けが人や病人の申告がされ、ロシア兵はその対応に追われる。ラーゲリに於いて動けなくなると言うことは“死ぬ”と言うことだった。病人は放置され、ただ死ぬことを待つだけだ。そして、死ねば裸にされて裏庭に埋められる。


 動けなくなった収容者が何人かいたが、皆、すでに死臭を放っていた。生きながらに腐っていっているような、そんな状態だったのだ。


 ――――


 ヴコールは外に出て、作業小屋の近くに立っていた。数メートル先を収容者達が歩いて行き、ロシア兵の指示に従って整列をしていく。


 収容所から出てくる人たちを見ていたヴコールは、ある男を見つけた。イグナートだ。


 イグナートは、解放された喜びを噛みしめるように笑顔で歩いている。なんとかこの地獄のような収容所の生活を生き抜くことができた。これで普通の生活に戻れる。そして、収容者を虐待していた看守を告発し、自分たちにこんな惨いことをした連中を罰してやると思っていた。


 ヴコールは傍らにあったスコップを持ち、つかつかと歩いてイグナートに近づいた。イグナートはヴコールが近づいてくることに全く気づかず、自分の世界に浸っているようだった。


「キャーーーー!」


 血しぶきを浴びた女性収容者が悲鳴を上げる。皆、何が起こったのかとその方向を見た。


 ヴコールはそのスコップを、イグナートの顔面に向けてフルスイングしたのだ。男は無言のまま後ろに倒れ、顔面の傷口からは赤い血がピューと吹き出している。


「ウオオオォォォォーーー!」


 ヴコールはスコップを振り上げ、イグナートの顔をめがけて何度も振り下ろした。その度に、血と肉片と骨が辺りに飛び散る。周りの人間は、その光景に何も出来ず無言で惨劇を見守っていた。


「何をしている!やめろ!やめないかっ!」


 ロシア兵が駆け寄ってきて、ヴコールを後ろから羽交い締めにした。


「止めるな!止めないでくれ!この男は、オレの家族を売ったんだ!密告したんだ!マリーヤとノンナを・・・・返してくれよぉぉ・・・・・・おお・・・返してくれ・・・おおおおぉぉぉ・・・」


 ヴコールはスコップを落とし、両手で顔を覆って泣き始めた。ロシア兵も状況を理解する。


 家族を奪われた憎しみを、密告した男にぶつけたのだ。


「落ち着け。気持ちはわかる。だが、我々は獣ではない。罪は法律によってのみ罰せられなければならないんだ。お前がしたことは犯罪だ」


 そう言ってロシア兵はヴコールの腕を結束バンドで縛り上げ、看守と同じグループに入れた。


 ――――


「イグナートはなんとか命を取り留めたよ。だが、完全に失明して左半身も不随らしい。まあ、人並みの生活はもう送れないな。どうだ?これで気が済んだか?」


 ロシア検察の一室で、ヴコールは取り調べを受けていた。


「あの男は、マリーヤとノンナを殺したんです。この手で、とどめを刺してやりたかった・・・」


「気持ちはわからないでもない。しかし、ロシア帝国は法治国家だ。私刑は認められないな。それはそれとして、収容者を虐待していた看守の情報を話して欲しい。連中には法の裁きを下してやらないとな」


 ――――


「わ、私は党の方針に従っただけなんです。収容されている方々を、殴ったのは命令なんです・・・・」


「そうか?この証言よると、同僚と二人で巡回しているときにも殴っているそうじゃ無いか?そこに上官は居なかったんだろ?上官の命令というのはおかしくないか?」


 東シベリアのラーゲリで逮捕された看守達は、こうして裁判が行われ、収容者を不当に殺害した者には死刑が適用され、暴行をした者には懲役刑が言い渡された。


 そしてヴコールにも、殺人未遂の罪で懲役7年が言い渡されることになる。


 ――――


 1939年9月24日朝


「弾薬の補給を急げ!あとペルビジンも服用しろ!」

 ※ペルビジンとは、メタンフェタミン(日本ではヒロポンが有名)という覚醒剤


 ドイツ軍将校の怒声が響く。


 スダンからシャルルビル・メジエールまでのフランス軍を駆逐したドイツ軍は、全軍でランスを目指した。英仏軍がランスに防御拠点を築く前に、なんとしてもランスを落とし、パリ包囲網の足がかりを作らなければならない。


 昨日の早朝にベルギーに侵攻を開始して24時間が既に経過している。歩兵はトラックに揺られながら仮眠を取り、戦車兵は運転を交代しながら戦車の中で睡眠をとった。


 ドイツ軍はまとまった休息を取ることなく、不眠不休で進軍する。スダンからランスまでの街道は良く整備されており、トラックなら70km/hで走行できた。戦車も、35km/hの速度で巡航できる。道のりにして100kmほどなので、戦車の履帯も十分に保つ距離だ。


 英仏連合軍にドイツ軍を止める手段は全くなかった。スダンからランスまでの街道には、ほとんど軍は配備されておらず、希に駐留部隊がいたとしても、それは少数であり、ドイツ軍に瞬殺されてしまった。

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