第162話 ラーゲリ(1)
シベリア鉄道の拠点確保と同時に、ロシア空挺部隊によるラーゲリ(強制収容所)解放作戦も開始された。
1939年9月22日
マガダン州セヴォストラク北東矯正労働ラーゲリ
ラーゲリへは家族で収容されている囚人も多い。
冬を前にして、ヴコールは死んだように曇天の空を見上げていた。忌々しい冬が来る。1年前の冬、ヴコールの妻ノンナと3才になる娘のマリーヤが死んだ。いや、党によって殺されたのだ。
1月6日の夕べ、彼らの一家は神に祈りを捧げていた。彼らは敬虔なロシア正教徒であり、ロシア正教が定めるクリスマス(1月6日夕~7日)に祈りを捧げずにはいられなかった。しかし、それはスターリンの教義に反することであった。スターリンは宗教を認めない。なぜならば、神は誰も救ってくれないことを彼は知っている。どんなに神に祈っても、救いを求めても、彼がサインをすれば簡単に処刑台に送られる。悪人も善人も、男も女も、老人も子供も、彼の前では皆平等に無力なのだ。そう、ソ連において神とは、スターリンそのものなのである。
翌日の早朝、ヴコール一家は収容棟から連れ出され、労働者としての矯正教育が実施されることになった。密告されたのだ。密告したのは同じ棟に収容されているイグナートだ。イグナートはもともとロシア正教の修道士だった。しかし、彼の所属していた教会が反革命的な説法をしていると密告された。
密告したのはその村の村長だ。その村は、党から課せられた小麦生産のノルマを達成できなかった。そして、党からの指導を受けていたのだが、このままでは自分がラーゲリ送りにされると危機感を感じた村長が、ノルマを達成できなかったのは、教会が反革命的だったからと、責任をなすりつけたのだ。そして司祭は処刑され、イグナートはこのラーゲリに収容された。彼は悟ったのだ。この世に神は存在しないと。
ヴコール一家を待ち受けていた”教育”は過酷なものだった。教育が終わるまでの2週間、彼らの食事は朝食の一食だけに制限された。就寝時の布団も取り上げられ、彼らは冷たい床の上に身を寄せ合い寒さを凌いでいた。
「マリーヤ、ごめんね。お腹、すいたね。お母さんたちのせいで、こんなことになって」
「ママ、大丈夫だよ。私にはパパとママがそばにいてくれるから。きっと神様が助けに来てくれるよ」
マリーヤの頬は痩け、腕や足は枯れ木のようにやせ細っていた。それでも、マリーヤは常に父と母が寄り添ってくれることに幸せを感じていた。
しかし、1月のシベリアは、そんな彼らの家族愛を嘲笑っていた。小さな娘には、この寒さは耐えられないかもしれない。だから、夫と妻の間に挟んで、暖めていた。しかし、やはり小さな体では、シベリアの寒さを耐えることは出来なかった。
5日目の朝、マリーヤは目を覚まさなかった。
「うわああぁぁぁぁーーー!!マリーヤ!お願い!目を開けて!お願い!マリーヤ!!」
母のノンナは絶叫した。我が子が目を覚まさない。もう、冷たく、固くなっている。それでも、少しでも暖めようと、自身の服の前を開け、我が子を抱きかかえて服を覆い被せている。
「うるさいぞっ!」
何の騒ぎかと看守が部屋に入ってくる。
「マリーヤが、マリーヤが目を覚まさないの!お医者様を、お願い、お医者様を・・・」
母親は看守にすがるように訴えかける。
「なんだ、もう死んでるじゃ無いか。裸にしていつもの場所に埋めてこい。脱がした服は守衛所に後でもってこいよ。服は人民のものだからな。取り込もうとか考えるな」
愛おしい我が子を裸にして、凍った冷たい土に埋めろという。ノンナにとってはとうてい受け入れられるものでは無かった。
「うわああぁぁぁーー」
ノンナは看守に突進しそのまま押し倒した。馬乗りになり、看守の顔を殴りつける。やせ細った女がすることだ。看守は驚きこそしたものの、たいしたダメージは受けていない。
「やめろ!ノンナ!そんな事をしたら・・」
バンッ
何かが弾けるような音とともにノンナの手が止まる。ノンナはそのままゆっくりと仰向けになり倒れ込んだ。
バンッバンッバンッ
乾いた銃声が室内に反響する。周りに居た看守が倒れているノンナに向けて小銃を発射した。
「ああ、ノンナ、ノンナ・・・・・」
ヴコールは膝から崩れ落ち、妻だったモノの近くで弱々しく呼び続ける。
至近距離から小銃弾を浴びたノンナの顔は、もう既に元の形をとどめていない。喉からは、“グゴゴゴォ”といびきのような呼吸の音とともに、大量の血液があふれ出している。そして、しばらくして呼吸と血液の流れも止まった。
跳弾した弾が他の人間に当たらなかったのは幸運だっただろうか。
「くそっ、このあばずれめ。党からの慈悲で教育を受けさせてやっているのに。おい、お前、そこのガキと反動主義者の死体を裏庭に埋めてこい。服は洗濯してから持って来いよ。それと、床もちゃんと掃除しておけ!」
ノンナに殴られた看守は、崩れ落ちて妻の名前を呼び続けているヴコールに命令した。その周りでは、別の看守がヴコールを見ながらニヤニヤと笑っていた。
ラーゲリ(2)に続く
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