第157話 捕虜収容病院
「いったいどういうことなんだ?」
クレムリンでは、スターリンが赤軍幹部を集めて日本の侵略に対する詰問をしていた。
「ノモンハンでは、新型の戦車や戦闘機を投入してきてはいるがその数は少数なので、日本軍の侵攻は無いと、同志諸君は言っていなかったか?」
スターリンは怒りを抑えながら、淡々と問い詰める。
赤軍幹部達は何も反論できない。スターリンはドイツと密約を交わし、ポーランドの半分を欲していた。そこに、東には日本の脅威があるのでポーランド侵攻はしない方が良いと言ったとしたら、それはそれで粛正対象だ。彼らはスターリンの意向を実現するための、一見合理的に思える理由を探す事以外なにも出来ない。
「それで、この日本軍の侵略に対してどうするつもりだ?」
「同志スターリン。まずは、イルクーツクから爆撃機を飛ばして、チタの日本軍を爆撃します。チタを占領している部隊は空挺団なので、満足な対空兵器は無いはずです。さらに、チタから100kmほど西のモグゾンにいる部隊に、鉄道を破壊しながらの西進を命じております。モグゾンからイルクーツクまでの線路を破壊し、日本軍の進軍速度を低下させます。その間に、ポーランド方面軍の約半分をイルクーツクに移動させ、要塞化を行います。ポーランドには既に抵抗する力も無く、現在の半分の戦力で十分であると考えます。唯一の懸念は、ドイツが協約を無視して東進する事ですが・・」
ドイツとは、ポーランドを分割することで合意している。しかし、ドイツがその合意を無視してソ連になだれ込んできた場合は対処が出来なくなる。
「ドイツについては心配の必要は無い。奴らは合意を守る。それでは、早速その作戦を実行したまえ」
スターリンはヒトラーなど一切信用していないが、アザゼルが言うにはヒトラーは約束を守るとのことだった。ヒトラーにも有力な悪魔が憑依しており、その悪魔とアザゼルで、世界を二分割するそうだ。そして、私は世界の半分の王になる。今までも、アザゼルの言うことを聞いていれば、すべてうまく行った。スターリンはアザゼルの事を信用することにする。なにしろ、この悪魔は簡単に粛正できないのだから。
――――
捕虜となったソ連兵は、ハルビンの収容施設に移送された。負傷している者は、ハルビン近郊の戦時特設病院で手当を受けている。
この病院は、大量の捕虜が発生することを見越して臨時に建てられた物だ。プレハブ構造だが、壁や窓は二重断熱になっており、さらにエアコンも完備されている。
負傷したソ連兵は、清潔なシーツに快適な空調の効いた病院に収容されたことに驚いた。それに、提供される食事も、今まで自分たちが食べてきたどんなものよりも量が多くおいしい。生まれてから二十数年、ほとんどが固いパンと水の量が多い薄いスープだけだった。彼らにとって御馳走は、子供のころクリスマスに何度か食べたビーフストロガノフくらいだ。
かたや、ソ連軍の捕虜になった者達は、そのほとんどが手当など受けさせてもらえず、傷口から腐って死んでいく。動ける者は強制労働にかり出され、死ぬまで働かされる。極東にいる多くのソ連兵は、ノモンハンで捕虜になった日本兵の末路を知っていた。自分たちが捕虜になった時には、同じように扱われるものだと思っていたのだ。
※史実では、ソ連の捕虜になったドイツ兵の生還率は5%を切っていた。捕虜になっても95%は殺されたのだ。
そして、その病院で働いていたのは、半分が日本人で半分がロシア人だった。
「イヴァネンコさん。血圧と体温を測りますね」
ロシア人看護婦が、負傷兵の血圧と体温を測る。毎朝の測定だ。
イヴァネンコは、ノモンハンで負傷し捕虜となった。戦友の死体が自分に偶然被さり、致命傷を避けることが出来たのだ。
“戦友の死体が偶然・・・・”
イヴァネンコは“それは違う”と自分に言い聞かせる。本当は、瀕死の重傷を負っていた戦友の体を、自分の上に乗せたのだ。そして、まだ息のある戦友を弾よけにして自分は生き残った。しかし、自分の弱い心は、自分自身の記憶さえ修正しようとしている。
「看護婦さん。敵である私たちに対して、なぜ、こんなにも看病できるのですか?あなたたちを追い出した我々が憎くないのですか?」
イヴァネンコは、意を決して看護婦に問いかけた。もしかしたら、命令で仕方なく看病しているのかも知れない。いや、きっとそうに違いない。自分は、誰かから優しくしてもらえる資格など無いのだ。
「何を言ってるんです?あなたはあなたの信じるところに従って、誇りを持って戦ったのでしょ?そして負傷し、戦うことが出来なくなった。それだけの事ですよ。私たちは、誇り高き戦士を差別したりしません。むしろ、戦い傷ついた皆さんの看護が出来ることに、誇りを持っているくらいです」
イヴァネンコはその言葉を聞いて、息の詰まる思いがした。
“自分が誇り高き戦士?この看護婦は何を言っているんだ?オレにそんな誇りがあるわけ無いじゃないか”
自分自身、共産主義の理想に燃えていたわけでは無い。ただ日本人やロシア人を敵だと思い、殺そうとしていただけだ。誇りを持って戦っていたわけじゃない。そして、息のある戦友を楯にして生き残った卑怯者なのだ。
イヴァネンコは看護婦の顔を見ながら涙を流し始めた。ボロボロと涙が出てくる。そして、それは嗚咽にかわり、号泣となった。
「ううう、うぉ・・・・うぉぉぉぉ・・・」
イヴァネンコは俯きひたすら泣いた。このロシア人看護婦だけでなく、日本人看護婦も同じように優しくしてくれる。こんなにも自分に優しくしてくれる人たちを敵だと思い、殺そうとしていたなんて。
ロシア人看護婦はイヴァネンコの手を優しく両手で握る。
「イヴァネンコさん。神は神がそうであるように、人が人を許すことを望んでいらっしゃいます。剣を捨てたあなたに、私たちは憎しみの心など持っていません。もちろん、そうでは無い人もいるでしょう。でも、それは神があなたにお与えになった試練だと思います。あなたが全ての人から許される時がくることを、私は信じています。そうそう、今夜の食事はビーフストロガノフらしいですよ。故郷の味を思い出して下さいね」
この病院で働く看護婦達は、あらかじめ512パターンの問いと2048パターンの答えを訓練していた。
傷つき心の弱ったソ連兵を受け入れ(受容)、そして共感し、辛い思いを共有する。そして、心を開いた瞬間に、今まで共産主義者が行ってきた非道を教育し、自分自身がこんなに苦しいのは、全てレーニンとスターリン、そして共産主義のせいだと思い込ませるのだ。
有馬公爵の指導によって、21世紀の心理学をベースにした“教育”がされていく。
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