第107話 朝鮮独立

1934年6月


 朝鮮半島独立が実現された。国号は「大韓帝国」だ。


 この名称は、1897年から1910年まで朝鮮が清から独立した後に名乗っていた国号である。


 首都は漢城(ソウル)に定められた。


 元首は皇帝として李垠が即位することとなった。この時、李垠には梨本宮家から方子(まさこ)女王が嫁いでいた。


 李垠は李氏朝鮮最後の皇帝高宗の七男であり、第一期大韓帝国最後の皇帝純宗の異母弟だ。純宗はすでに逝去しており、20歳年上の異母兄 李堈がいるが素行に問題があったため、李垠が即位することになった。これは、日本の強い意向でもある。


1934年6月11日 景福宮


 厳かに大韓帝国皇帝の即位礼が行われる。朝鮮の歴史に於いて、即位礼に皇后を同席させることは通常無かったが、李垠の強い希望で実現された。李垠は、李氏朝鮮が始まって以来、初めて側室を持たなかった王族※であった。


 ※夭逝した者を除く


 朝鮮の民族衣装をまとった李垠皇帝と方子皇后が並んで壇上に立つ。そして、李氏朝鮮の初代国王 太祖 康献大王の霊に、国家の安寧を図り国民のために自らを省みることなく献身することを誓った。


 即日、大韓帝国憲法の公布がなされる。これもまた、日本国憲法を参考にした、民主主義色の強い内容となっている。これにより、憲法の条文としてはロシア・清・大韓と比べて日本が最も公民権や平等について遅れているという事態になってしまった。


 そして、外国からの招待客をもてなすための晩餐会が開かれる。晩餐会は、西洋風に仕立て上げた。日本からは、天皇の名代として秩父宮雍仁親王が、ロシアからはアナスタシア皇帝夫妻が参加していた。


 李垠皇帝は、それまで日本の王公として遇されていたので、秩父宮親王やその他皇族とも交友がある。


「皇帝陛下。この度は独立とご即位、誠におめでとうございます。ロシア国民を代表してお喜びを申し上げます」


「アナスタシア皇帝陛下。誠にありがとうございます。まさか我が国が独立できるなど、夢にも思っておりませんでした。これからは、お互い手を取り合い協力していきたいと思います。なにとぞよろしくお願いします」


 もともと、朝鮮半島は日清戦争や日露戦争のきっかけになるなど、東アジアに於いて不安定材料でしかなかった。しかし、今や日清日露戦争で戦った国々は、個々に独立を果たし、日本を盟主とした同盟関係にある。


 アナスタシアや李垠は、過去に戦い血を流した相手であっても、こうして和解し協力していけることを嬉しく思う。人々はわかり合うことが出来るのだと。


 日本国内からの、朝鮮出身者の帰国事業も開始された。朝鮮半島出身者と、両親が朝鮮半島出身者の子女については例外なく大韓帝国の国籍に切り替えられた。両親のどちらかが朝鮮半島出身の者には、成人する20歳まで両国の国籍を有し、成人と同時にどちらか一方の国籍を選択する制度となった。


 また、朝鮮半島に日本が敷設したインフラに関しては、減価償却が済んでいる部分に関しては無償供与とし、減価償却が残っている部分に関しては借款となった。(民間資産を除く)


 これは、大韓帝国独立に際して、日本の税金で作った物を全て無償で提供するのかという反発があったためだ。


 日本に在住している朝鮮半島出身者のほとんどが、この帰国事業によって半島に帰ることになった。日本と韓国との物価の差があり、日本での財産を処分すれば韓国ではかなりの財産になった。しかも、帰国に対して日本政府から一時金の支給もされたのだ。


 そして、朝鮮半島には日系の工場や製鉄所が建設されており、そこで働いていた日本人が本土に帰国するため、その代替として日本で職を身につけた労働者が多数必要とされたのだ。


 こうして、大韓帝国は近代国家としての歩みを始めた。


 しかし、日本主導での独立をよく思わない勢力もあった。それは、毛沢東に後押しされた共産主義者の一派である。



<東亜条約機構(EATO)>


 さらに、大韓帝国独立と同時に東亜条約機構(EATO)の設立が宣言された。これは、21世紀の北大西洋条約機構(NATO)とほぼ同内容の集団安全保障機構だ。この機構には、日本・ロシア・清帝国・大韓帝国の他、アジアのいくつかの国が参加した。


 ・大日本帝国

 ・ロシア帝国

 ・清帝国

 ・大韓帝国

 ・タイ王国

 ・チベット

 ・ネパール

 ※ネパールに関しては、イギリスへのグルカ兵の提供を阻害しない


 EATOへの加入条件として、立憲君主もしくは民主主義国家であることが定められた。名目上というだけではなく、国民議会を運営し、5年に一回以上の国政選挙を行うことが義務づけられている。その為、タイ・チベット・ネパールでも日本の協力により憲法の制定および改正と議会の改革が行われることになった。


※日露・日清と締結していた安全保障条約はEATOの枠組みに移行することになった


 また、経済協力も進めていく。


 既に、日本とロシアとの間では経済連携協定(EPA)が締結されており、原油と天然ガス以外のほとんどの貿易品目の関税が撤廃されている。また、日本とロシアとの間では検問もなく人の行き来も自由だ。そして、このEPAは清帝国を始め拡大予定となっている。


 日本を中心とした経済圏は、世界の一角を占めるようになっていた。


 1934年7月


 ジュネーブ 国連総会


「我が国は、ヨーロッパ諸国における植民地主義に強く反対し、民族の自決権の原則により全ての民族が独立することを求めます」


 松岡国連大使は壇上で強く主張する。


 この当時、アジア・アフリカのほとんどの地域はイギリス・フランス・オランダ・アメリカの植民地であった。日本国民はEATO設立に当たって、アジアに独立国がほとんど無いことを再認識した。日本は朝鮮半島を独立させて、積極的に民族の独立と世界平和を希求しているのに、ヨーロッパ諸国とアメリカは植民地主義をやめようとしない。そういった列強に対して、日本の世論は反発を示しつつあった。

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