第108話 ホー・チ・ミン

1934年9月


 ベトナム・フエ


「初めまして、同志グエン(ホー・チ・ミン)。大日本帝国宇宙軍の高城少佐です」


 ※この頃ホー・チミンはグエン・アイ・クオックを名乗っていた

 ※1954年までベトナムはフランスの植民地支配を受けていた


「初めまして。“同志”と呼んでいただけるのは嬉しいのですが、あなたはコミュニストではないですよね?」


「そうですね。どちらかと言えば、共産主義に敵対する側の人間ですね。しかし、同志グエンはそれを解っていながら、私に会って頂けた。それだけ私の話に興味を持って頂いているということですね」


「あなたにというよりは、日本にです。朝鮮半島の独立を実現したことは、列強に対する強いメッセージになると思います。これが、植民地解放の嚆矢(こうし)になることを、世界の全人民は期待しています」


「そうですね。日本も私も世界中の植民地が解放され、全ての民族がその未来を自分自身で決めることができるようになることを望んでいます。もちろんベトナムにおいてもです。しかし、それは共産主義革命によって為されてはならないと考えています」


 ホーは蒼龍の顔を見る。小柄なホーから見ると、蒼龍は堂々とした体格をしておりその顔には自信が満ちあふれている。たしか男爵家と聞いている。貴族階級として、人民からの搾取によって成長したのだろうと思う。


「それは、あなたが貴族階級だからではないのですか?あなたは無産階級の悲しみを知らない。どれだけ虐げられているかも知らない」


「そうですね。確かに私は、無産階級や労働者階級を経験したわけではありません。しかし、人々の生活を良くしようと思う志はあなたにも負けてはいません。そして、なにより私は共産主義の排他的な恐ろしさを誰よりも知っているのです」


 “排他的な恐ろしさ”


ホーはその言葉が胸に重く響いた。この頃、ホーはコミュンテルンとの路線の対立によって閑職に追いやられていた。ソ連では、多くの同志が強制収容所に送られていることは知っている。一つ間違えば、ホー自身、粛正の対象になっていたのだ。


 高城蒼龍は話を続ける。


「では、こちらの資料をご覧下さい」


 それは、ウクライナやカザフ、ジョージア、アゼルバイジャンで行われた虐殺の資料だ。


 ソ連に於いては、レーニン時代から常に粛正と虐殺が続けられてきた。共産主義はほんの少しの異物も許容しない。そこには、苛烈な迫害と虐殺の証拠が示されていた。


「ウクライナでの飢餓については知っています。しかし、あれは物流の停滞による不幸な出来事でしょう。理想郷を作る過程での歪みだと考えます。産みの苦しみですね」


 ホーはそう言ってソ連を擁護するが、その瞳には迷いが見て取れた。


「私もレーニンの“民族問題と植民地問題に関するテーゼ”は読みました。素晴らしい内容です。そして、同志グエンがそれに感銘を受けたことも納得がいきます。もし、あのテーゼがレーニンの本心であったなら、ですが」


 ホーは鋭い目つきで蒼龍をにらむ。“お前は何を知っているのだ?”と。


「レーニンはロシア革命の時に、多くの無辜の民を殺害しました。1918年には512人の市民が公開処刑されています。これは、レーニンに対する暗殺未遂事件への報復として、犯人と同じ階級の市民を無差別に連行して殺害したのです。この中には、子供や女性もいました。もちろんこれだけではありません。レーニンは500万人から1,000万人もの人民を虐殺しています。スターリンに至っては、今この瞬間にも粛正や虐殺を行っています。あなたは、この美しいベトナムでそのような事をなさりたいのですか?」


 ホーは言葉に詰まる。自分自身、ベトナム共産党において“共産主義の実現より民族自決の方を優先すべき”と主張した事で閑職に追いやられている。共産党を裏切ったという人間が秘密裏に処刑されたことも知っている。しかし、彼は、本当に裏切っていたのだろうか?もしかすると、彼の次は自分の番なのではないだろうか?


 ホーの中に疑心暗鬼が芽生える。


「同志グエン。日本はベトナムをはじめ、欧米に植民地にされている国の自治の獲得を目指しています。しかし、武力でそれを為そうとすれば、必ず多くの人たちが犠牲になります。私はそれを避けたい。そして、ベトナムに於いては、あなたが中心となって新しい、光り輝く国家を作ってもらいたいのです」


「しかし、何故私なのですか?私はこの通り閑職に追いやられていて、なんの力もありません。私では全くお役に立つことは出来ないでしょう」


 ホーは少し俯いて、悔しそうに言葉を紡ぐ。


「あなたはそれで良いのですか?」


「・・・・・・・・」


「私は、あなたの情熱を知っています。あなたのベトナム民族のために全てを投げ出す覚悟を知っています。そして、あなたがベトナム人民を愛していることを知っています。だからこそ、私はここに来たのです」


 ホーは自分自身の中で、燻っていた“何か”に火が付くのを感じた。


「もし、フランスを追い出すことが出来たとしても、共産党が実権を握れば、すさまじい粛正と虐殺が発生します。少なくとも、国際コミュンテルン主導の現状であれば間違いないでしょう。それは、ソ連を見れば明らかです。共産主義実現のために彼らが最初にすることは、異物の排除です。同志グエン。あなたは、それで良いのですか?」


 良いわけがない。私はベトナムと、全てのベトナム人を愛している。主張が違うからと言って迫害したり、ましてや殺したりして良いわけがない。それは、植民地人だからという理由で迫害したり殺したりしてきたフランス人と何が違うというのだ?そんなのは、私が求めてきたベトナムでは断じてない!


「良いわけがない。私は、ベトナムに生を受けた全ての人民が、等しく笑いながら生きていける国を作りたいのだ」


「同志グエン。あなたは1919年のパリ講和会議で“安南人民の要求”を出されました。わたしは、それに感銘を受けたのです。全ての政治犯の釈放、言論と結社と集会の自由の保障を求めたあなたには、偽りはないと信じています。しかし、それは共産主義とは相容れない主張であることにも気づいているのではないですか?あなたには、ベトナム共産党の暴走を防いで、“その時”まで力を蓄えて頂きたいのです」


 蒼龍はホーとこれからのベトナムについて語り会った。ホーの言葉からは、ベトナムに対する愛情と情熱が伝わってきた。蒼龍は、やはりこの男に会って良かったと思う。


 蒼龍はガンジー、スカルノ、ネルーといった要人達と秘密裏に会合を重ねる。東南アジアの共産化を防ぎ、犠牲を最小限に抑えながら各国の独立を勝ち取るために。


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