第53話 南京事件 1927(3)
「陛下。ご無礼を承知でお願いに上がりました。この度の中国租借地の資産を売却なさる件、なにとぞお考え直し頂けませんでしょうか?」
陸軍大臣は、深々と頭を下げながら、天皇に奏上する。
「陸軍大臣よ、なぜだ?閣議では、陸軍大臣のみ反対し、決定がされなかったと聞く。今回の南京では犠牲者こそ出なかったが、重軽傷者が幾分発生したと聞く。このような襲撃が続けば、いずれは民間人への被害も出るのではないか?」
「はい、陛下。それに関しては、兵力を増強し、十分に防衛できるようにいたします。中国の無法を許すわけにはまいりません」
「しかし、中国の人口は多い。もし、数万人が暴徒と化して襲ってきたなら、いくら精強な我が皇軍でも防ぎきるのは難しいのではないか?」
「はい、陛下。そこは、我々を信用して頂きたく存じます。それに、満州を除く中国大陸の資産を売却するとしても、投資した総資産額は国家予算にも匹敵します。競売を実施するとのことですが、これを良い値段で買い取る企業や国家があるとは思えません。それに、もし、アメリカが手にするようなことがあれば、アメリカと中国の結びつきはさらに強くなり、日本にとって好ましからざる状況になるやもしれません」
「アメリカは中国の利権を欲しておる。今なら良い値段での入札があるかもしれぬし、そもそも、日本はアメリカと敵対してはおらぬ」
陸軍大臣は、『これだから国際情勢を知らない素人は・・・』と内心思う。
「はい、陛下。しかしながら、中国での権利は日清戦争において、数多の兵士の犠牲によって手に入れたものです。また、今現在も多くの日本人が経済活動をしており、今後も富を生み出し続けます。それをみすみす手放すのは、先人に顔向けができません。何より戦争の詔勅をだされた明治大帝にも申し訳が立ちません。それに、今現在、アメリカとは敵対しておりませんが、潜在的にアメリカは日本を脅威と考えております。十分に注意しなければならない相手です」
「なるほど。そうであるならば、戦争や武力によって手に入れた権利は、未来永劫手放すことは許されぬということだな?そうやって、周辺諸国と武力衝突を起こし、日本の領域を拡大していくのが良いと言うことか?」
「はい、陛下。いたずらに衝突を起こすのが良いとは申しませんが、いざ、国家危急の際には、致し方のないことだと存じます」
「なれば、今はその国家危急の時だと?」
「はい、陛下。現在は国家危急と言うわけではありませんが、日本人租界を危機にさらしているのは、中国の責任です。それにも関わらず、日本が一方的に撤退するというのは弱腰と言われても致し方ないかと。それに、満州において愛新覚羅溥儀を皇帝にした清帝国樹立の支援を行うというのも、満州を実効支配している張作霖との関係もありますし、いささか性急に過ぎるかと考えます。」
※この頃までは、日本陸軍と張作霖は蜜月といって良かった。この時点では、張作霖を傀儡として、陸軍による満州支配を画策していたため、愛新覚羅溥儀を復権させることに反対していた。また、当時は一度手にした権益を手放すことに、陸軍はもちろん、国民にも強い抵抗感があった。
「大臣よ、朕はこう思うのだ。今から60年前の下関戦争の時、イギリスやアメリカは下関を占領したが、それがもし今でも続いていたなら、日本と英米は友好国とはなれなかったと思う。しかし、講和をして英米は下関から撤退をした。だからこそ、友邦になることが出来たのではないか?朕は他国と不平等な、主従のような関係ではだめだと思っておる。朕は世界中の全ての国と、“ともだち”になりたいのだ」
「はい、陛下。もちろん、それが理想であると考えます。しかしながら、現在の世界情勢はそれを許す状況にはございません。世界が弱肉強食の中、日本だけそのような弱腰の姿勢では、この荒波を越えて行けないのでは無いでしょうか」
「なればこそ、我が帝国が率先して“範”となればよいのではないか?」
「はい、陛下。しかしながら、今の現実がそれを許さないのです。無礼を承知で申し上げます。陛下のお考えは、誰かからの甘言に影響されているのでは無いかと危惧する者がおります。宇宙軍の士官を重用されすぎているのではないかと。特に、ご学友でもある高城大尉の言に振り回されているのでは無いかと、多くの心ある者が心配をしております。陛下。高城大尉と少し距離を置かれて、周りの言葉にもっと耳を傾けて頂きたく存じます」
「きさま、オーベルシュタイナー(※)の様なことを言うのだな」
(※大銀河英雄奇譚で、主人公のラインホルトに諫言をし、結果、主人公の親友ジークベルトを死に至らしめる)
天皇は怒気をはらんだ言葉を発した。室内の温度が急激に下がったかのような恐怖を、陸軍大臣は感じる。
「えっ?」
「いや、なんでもない。それに、張作霖は日露戦争の折、ロシアのスパイだった男だな。逮捕された後、児玉と田中が命を救い、日本側のスパイとしてロシアに潜入させている。すぐに忠誠を鞍替えするような男が本当に信用できるのか?」
「はい、陛下。そ、それは、なぜ、その様なことを・・・・」
陸軍大臣は驚愕する。これは陸軍でもほんの一部の人間しか知らない“事実”である。日露戦争は1904年だ。当時3才だった今上が知るはずの無いことだった。
「朕が何も知らぬと思っているのか?大臣よ。朕もバカにされたものだな。陸軍は、天皇はお飾りで何も知らせない方が良いとでも思っているのか?まあ、それは良い。租借地の売却の是非は後回しにしても、居留民の避難を先に進めてはくれまいか?朕の赤子である居留民を危機にさらすことは出来ない。大臣よ、もう一度よく考えて欲しい」
――――
「高城よ、まずいな。避難指示がまだ出ていない。南京の部隊を漢口に回すとしても、これでは居留民の避難は間に合いそうに無い。どうすればよいだろう?」
高城も、陛下がこれほど強く要請されているにもかかわらず、まさか陸軍大臣が反対をして閣議決定されないなど、思ってもみなかった。
史実では、南京事件の10日後に漢口で日本人居留民に対する襲撃が発生している。避難させるにしても、もう時間が無い。蒼龍にとって、明らかな誤算だ。
「はい、陛下。今からでは避難が間に合わない可能性が高いと思います。居留民を一時的に領事館で保護し、頃合いを見て海軍艦艇にて避難させるしか方法が無いかと存じます」
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