第3話 消失

2032年9月 日本国福島県


 21年前にメルトダウンを起こした原子炉の近くにある、航空宇宙自衛隊宇宙科学研究所の地下7階。高出力を発生させる新型ヒッグス粒子加速器を前にして、芦原蒼龍(あしわら そうりゅう)はつぶやいた。


「とうとうここまで来たか」


 この研究施設の責任者、第三先進技術開発室の室長である芦原蒼龍は、20年前のヒッグス粒子の発見から始まったヒッグス機構の解明を目指して、JAXAと共同で研究をしている。


物質は質量を持っている。


 21世紀を生きる人間にとっては至極常識的なことだ。しかし、なぜ、どのような機構で質量を持っているのかが理解され始めたのは20世紀も後半になってからである。


 質量の研究に転機が訪れたのは、北京大学のヤン・リー博士が1999年に「特殊対称性の受動的干渉による破れ理論」を発表した事による。この宇宙はヒッグス粒子によって満たされたヒッグス場であり、物質にヒッグス粒子が干渉することによって質量が与えられているということは、1960年代から予言されていた。しかし、ヒッグス粒子そのものに対して、人為的にその対称性を破ることができる可能性が、この理論によって示唆されたのである。そして、2012年にヒッグス粒子が発見され、さらにヤン・リー博士の理論に基づいて、ヒッグス粒子が物質に干渉する機構を、人為的に操作することが可能であることが確認された。


 このヒッグス粒子加速器は、4つのシンクロトロンと4つのリニアック(直線加速器)、そして中心にヒッグス粒子加速器を組み合わせた非常に大規模な施設だ。建物が加速器の形に建設されているので、上から見るとあたかもナスカの地上絵のような模様をしている。2020年代初頭にEU・アメリカと共同での開発が提案されたが、ヒッグス粒子のもつ軍事的可能性から共同開発に難色が示され、アメリカが脱退した後にEUも脱退して日本独自で研究が進められることになった。


 アメリカでも極秘に研究は続けられており、年内にも稼働するのでは無いかという噂が聞こえてくる。


 軍事的可能性


 これが、自衛隊が参加して研究を進めている理由だ。


 この実験が成功したならば、物質の質量を自由に操作することが出来るようになることが予言されている。


 今回の実験では、中心のヒッグス粒子加速器の中に、マイクロブラックホールを二つ生成することを目標にしている。その二つのマイクロブラックホールは、公転軌道を共有し、お互いの重力と遠心力が釣り合った状態で加速を続ける。すると、その回転の中心では強烈な斥力が発生し、臨界を超えるとむき出しの特異点が出現する。その特異点から放射される膨大なエネルギーは、回転するブラックホールの軌道外側に形成されたエルゴ領域によって減速され、人間が利用できる状態のエネルギーとして取り出せるはずである。


 ここで取り出すことのできるエネルギーは、まさに無限大。そして、さらにブラックホールの回転速度を上げていけば、中心に発生する斥力の特異点の周りにタンホイザーゲートが生成される。そして、そのタンホイザーゲートを広げて宇宙船を包めば、それをワープさせることが出来るのだ。


 ※タンホイザーゲートとは、1982年のSF映画「ブレードランナー」において語られる時空を超越するための特殊なゲートの事。21世紀においては、ワープを行うためのゲートの総称として使われている。


 また、ヒッグス場と物質との干渉を無くすことによって、物質の質量を限りなく「0」にすることが出来る。質量が無ければ、より小さい力で物質を加速させることもできる。


 このヒッグス粒子加速器実験は、人類の歴史を転換させる、まさに夢の実験なのである。


しかし、人の心には表もあれば裏もある。最新の科学技術には必ず軍事的可能性が唱えられるものだ。


 使い方によっては、核兵器などよりよほど恐ろしい力を発揮する兵器を創造することが出来る。いや、可能性として、この地球や太陽系すら、人工的に作り出したブラックホールによって飲み込ませることができるかもしれない。まさに、この世界に終焉をもたらす技術なのだ。


 日本での研究は、表向き宇宙開発の為となっている。航空宇宙自衛隊が参加しているのは、ヒッグス粒子加速器とマスドライバーを組み合わせて偵察衛星の打ち上げコスト低減の為となっているが、実際には高性能なレールガン開発や超重力兵器、様々な兵器への応用が期待されている。そして長期的には、超光速を実現する宇宙戦艦の建造も視野に入る。無限のエネルギーが手に入れば、それは可能となってくるのだ。



「定刻通り、第28次最終加速実験を開始します。各研究員は準備を開始してください」


 女性オペレーターの声が、スピーカーから聞こえてくる。いつも通りの涼やかで良くとおる声だ。


「プライマリシンクロトロン稼働開始します。3・2・1、稼働しました。続いてセカンダリシンクロトロン稼働開始します」


 4つあるシンクロトロンが順次稼働していく。シンクロトロンの中では、陽子が光速の99.9999999999999%まで加速される。そして加速された陽子はシンクロトロンに接続されたリニアックに導入され、さらに加速しながら施設の中心にあるヒッグス粒子加速器に向かって行く。加速された陽子は、10の16乗電子ボルトという膨大なエネルギーを保持したままヒッグス粒子加速器の中でさらに加速され、エネルギーを高められた後、4方向から収束された陽子ビームは中心において衝突を起こす。このときの相対速度は光速の約2倍。瞬間的にビッグバンにも匹敵するエネルギーを発することになる。そしてその高密度のエネルギーはヒッグス機構を破壊し、物質から質量の鎖を引きちぎるはずである。


「蒼龍、どんな感じだ?」


 目の前のスピーカーから声がする。声の主は、JAXAの研究員「了司 飛鳥(りょうじ あすか)」だ。彼はここから30km離れたプライマリシンクロトロンの研究棟で、この実験のリーダーをしている。


「ああ、順調だよ。シンクロトロンから陽子が送られてきたら、確実にマイクロブラックホールが生成されるはずだ。これで俺たちの夢に一歩近づくことになる」


「俺たちの夢」


 飛鳥とは小学校からの友人だ。彼は幼少の頃、事故で家族全員を亡くし、施設に預けられていた。頭は良かったが、どことなく陰があり内気な飛鳥は、やはりイジメにあっていた。


 蒼龍は飛鳥の唯一の友人であった。


 蒼龍は飛鳥をかばい、一緒にイジメられたこともあったが、二人で居れば辛くは無かった。そして、お互いに切磋琢磨する仲になっていった。


 蒼龍は幼少の頃よりサッカーに熱中した。小学年代では全国大会の決勝戦まで進み、惜しくも敗れ涙したこともあった。ジュニアユース、ユースとチームの中心となって、全国大会にも出場することもできた。社会人になってからは、サッカーをする機会はずいぶん減ったが、自衛隊の仲間でチームを作って、社会人リーグに参戦している。


 内気な飛鳥は、音楽に熱中した。自分で楽器を買うことは出来なかったので、学校にある楽器を使って放課後はずっと練習に打ち込んだ。自分の思いを発信できる唯一の方法が、彼にとっては音楽だったのだ。


 二人の成績は、常に学年で一位と二位だった。東京大学も飛鳥が首席卒業、次席が蒼龍である。そして蒼龍は自衛隊に、飛鳥はJAXAに入ることになる。


 二人には共通の夢があった。いつか、超光速の宇宙船を建造して、誰も見たことの無い世界に行くという夢。小さい頃には無邪気な夢だった。10代の頃には中二病と言われた。そして今、その夢は現実に一歩踏み出そうとしているのだ。


 「シンクロトロン、加速完了まで3・2・1 目標速度に到達 射出まで3・2・1 射出。ヒッグス粒子加速器で陽子の衝突を確認。予定の軌道に入りました。第二次加速を開始。目標速度まで600(秒)」


 あと10分足らずで、中央にあるヒッグス粒子加速器内にマイクロブラックホールが生成される。100年も前からSF小説で語られていた、人類の夢。もうすぐ、もうあと少しでその一歩を踏み出すことが出来る。目の前にあるディスプレイのグラフが反転すれば、ブラックホールが生成された証左となる。グラフを凝視しながら、蒼龍は心臓の鼓動が早くなっていることを感じていた。


「なっ!?」


 蒼龍がグラフを見ながら驚きの声を上げると同時に、少し焦った女性オペレーターの声が響く。


「目標速度に到達。ブラックホールの生成を確認しました」


 そのアナウンスを聞いた職員たちが一斉に歓喜の声を上げる。とうとう人類は新たな一歩を踏み出すことが出来たのだ。


 しかし、蒼龍は急いで実験の数値を見直し始める。どこかに異常があるのでは無いか?たしかに目の前のディスプレイには、ブラックホールの生成を示すグラフが表示されている。表面的には実験の成功のはずだ。しかし、予定時刻を200秒も下回っている。つまり、予定より加速が大きかった可能性がある。もしくは、計器の異常でまだ実際にはブラックホールは生成されていないのではないだろうか?


「加速器、減速しません。依然ブラックホールは状態を維持。エネルギーが増加しています」


 ブラックホールの生成が確認できた場合、すぐに減速プログラムが起動して、加速器は停止することになっている。しかし、停止しない。


「危険だ」


 何が起きているかはわからない。しかし、なにかおかしい。もし重大な不具合で減速プログラムが起動していないのであれば、重大事故にもつながりかねない。


「緊急停止!」


 蒼龍はそう叫ぶと、手元のコントロールパネルの緊急停止ボタンに拳をたたきつける。透明なプラスチックカバーが砕け、それによって保護されていた赤いボタンが激しく押し込まれる。


「停止信号発信を確認。停止失敗!依然、エネルギーが増加しています」


 女性オペレーターの声が幾分裏返っている。


 さっきまで実験成功に沸いていた室内は一変し、職員は自身のデスクに座り異常箇所の確認作業をしている。


「だめだ!停止信号は出ているのに加速器が受け付けない」


 一秒一秒がもどかしい。こうしている間にも加速器の中のエネルギーは増加を続け、ブラックホールが成長を続けている。


「くそっ!このままでは暴走するぞ!」


 職員の誰かが叫ぶ。


 暴走すれば、最小でこの研究施設の消失。最悪、大規模な超重力災害によって、人類の存亡も危ぶまれる。


 緊急停止が作動しない。0.1秒の判断の差が取り返しのつかない事態になる。


「緊急警報を発令!全職員はシェルターに避難しろ!」


「し、しかしそれでは加速器を停止できません!」


「加速器をパージする」


「!!」


 そこに居た職員全員が蒼龍の方を見て黙る。


“加速器のパージ”


 そうすれば、おそらく最小の被害で加速器を停止(破壊)させることが出来る。しかし、パージをするためには、加速器に直接埋め込まれている爆砕ボルトを起爆させる必要がある。そして、そのスイッチの場所はここから約400メートル、加速器から50メートルの位置にある。スイッチは、厚さ3メートルのコンクリートと1メートルの鉛板によって保護されている。しかし、現状の加速器の状態であれば、パージと同時に内部の膨大なエネルギーが解放され、そんな部屋は消し飛んでしまうだろう。スイッチを押した本人とともに。


「加速器をパージするしかない。警報を鳴らせ。全員シェルターに避難。これは命令だ。それに、ここにいる誰より、俺は足が速い」


「し、しかし、室長は・・」


「1秒が惜しい。全員すぐに命令を実行!それに、シェルターに逃げても助かる保証は無いんだ。気にするな」


 そう言って蒼龍は加速器に向かって走り出す。


「そういや、俺のパソコン、誰か処分してくれないかな?電源を入れたまま風呂に沈めるとか。そういやそんなアニメかラノベがあったっけ」


 全力で走りながら、昔見たアニメを思い出す。もうすぐ確実に死ぬのに、こんなことしか思い浮かばないとは。ひた隠しにしていたオタクの本性かもしれない。


 緊急警報が鳴り響く廊下を駆けて、加速器管理室に入る。警報が鳴っている以外は、きわめて静寂だ。本当に加速器が暴走しかけているのかと疑ってしまう。しかし、蒼龍はパージの為のパスコードを入力し、破壊スイッチを納めた円柱が床からせり上がってくるのを待つ。直径30cmの円柱。時間にすればほんの10秒ほどだが、永遠の様にもどかしい。


 その円柱は床から90cmのところで停止し、上面のカバーが開く。その中には、この加速器をパージするためのボタンがある。


 蒼龍は、ためらわずにそのボタンを押し込む。


「不思議と、誰の顔も思い浮かばないものだな」


 死を目前にしているにもかかわらず、不思議なくらい感慨が無い。そして、ボタンを押した瞬間、蒼龍の視界は真っ暗になり、意識が消えた。



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