第38話 旅立ちの日


 あっという間の出来事だった。

 退職の発表があった次の日の仕事なんて。

 みんな浮き足だって、仕事どころじゃなかった。


 先輩は最後に、みんなに挨拶しながら、一人ひとりにお茶菓子を配っていった。

 その途中途中で、事務職の女子が入れ替わりで吉野先輩を呼びに来た。


 ーー多分、告白されてるんだろう。


 吉野先輩が部屋に戻ってきてしばらくすると、呼び出した女子が泣いて廊下を通っていくのを何度見たことか。


 そして時刻は15時になり、やってきたのは進藤だった。進藤は、いの一番に吉野先輩に自ら挨拶に行った。


「短い間でしたが、大変お世話になりました。失礼でなければマナとお見送りに行きたいのですが、2日後の何時に空港へ行けばお会いできますか」

「ありがとう、俺は、12時までロビーにいるつもりだ」

「私も、行くからね!」

「ああ、ありがとう」


 もう、泣くことすらはばからない佐々木先輩。朝からずっと泣き通しだ。


「佐々木には、今まで本当にお世話になったよ。何から何まで」

「バカ吉野! なんでもっと早く教えてくれなかったのよ」

「本当だよな。バカでごめん」

「ううう~」


 吉野先輩は、佐々木先輩を連れて廊下へ出た。

 積もる話があるだろう。

 いつも仕事にうるさい営業課長も目をつぶっている。それだけ会社に貢献してきた吉野先輩の退職だもんな。何か言おうものならたとえ上司でも野暮ってもんだ。


「進藤、若菜、来たか?」

「いいえ、結局午後もお休みするみたいです」

「そ、そっか……」


 自分で若菜に連絡すればいいものの、聞くことができないチキンな俺。

 今頃荷造りしているんじゃないか、そう思うと俺はーー何も動けなくなるんだ。いつもドSなくせして、結局はチキンで。情けなく感じる。


 結局、終業時間まで吉野先輩たちは帰ってこなかった。その気持ちは、よくわかる。もし俺が吉野先輩の立場で、若菜が佐々木先輩の立場で、親友だったなら……別れ難くて仕方ないはずだから。


 それはみんながわかっていることだから、誰も咎めなかった。


 


 ーーそして、あっという間に、出発の日になった。


 今は10時半。今出れば、余裕で間に合う時間だ。チキンな俺は、結局昨日若菜に連絡もできず、今に至る。


 まだ、いるだろうか。

 それとももう、出発してるだろうか。

 昨日休みだったのは、退去の手続きだったのだろうか……。


 心臓が、壊れそうだ。

 気持ちが悪い。


 俺はドキドキしながら、インターホンを押す。


 ーーピンポーン。


 返答はない。


「そうか、余裕を持って出たのか……」


 ーー覚悟しなければならない。

 若菜との別れを。


 そう思うと、バスの中、電車の中……。

 俺は涙が止まらなかった。

 大好きな……いや、愛してる若菜にもう、二度と会えないのか……。


 仕事に行けなくなるかもしれない。

 食欲もなくなって倒れるかもしれない。

 俺の、生きる意味だった若菜……。


 重たいだろう、と思う。

 若菜からしたら。


 けれど、それだけ俺にとって若菜は、重要な人であり、本当に心から、愛してるんだーー。


 ◇


 俺は結局、ちょっと早く空港に着いた。

 進藤も、マナちゃんもいた。

 佐々木先輩も。


 けれど、吉野先輩と若菜の姿は見当たらなかった。

 2人でどこかでお茶でもしてるんだろうかーー。


 マナちゃんも、心配そうに俺を見てくれている。

ませてる子だからな、きっと俺の気持ちがわかるんだろうな。

 それに、泣いているのは俺だけではないし。

 進藤も、佐々木先輩も泣いている。


 なんなんだこの集団は、と、周りから見れば思われるだろう。




 でもそんなの俺たちには関係ない。

 もう二度と、会えなくなってしまうんだから。



「おーい、みんなー!」

 

 吉野先輩だった。


「本当に来てくれてありがとう。嬉しいよ。マナちゃんも、ありがとうね」

「うん。でも、みんな泣いてるのよ。もう、日本には帰ってこないの?」

「いつになるかはわからないけど、たまには帰ってくると思うよ。家もそのままだし、弟妹も日本にいるからね」


「本当ですか?」


 進藤は嬉しそうに聞いた。


「本当だよ。帰る時には、また、連絡するから」

「なら、泣き止みます、頑張って」


 吉野先輩は、進藤の頭をポンポンと撫でる。


「……鈴木、若菜ちゃんは?」

「え、来てないんですか? 家にはもう、とっくにいなかったですけど」

「ーーそうか」


 先輩の顔が、少しだけ明るくなった。

 俺は逆に、心が死んでいく。



 ーータッタッタッ!

 走る音が聞こえてきた。


 振り返ると、そこにはーー



 ーー若菜がいた。


「直樹先輩!」

「ーー! 若菜ちゃん!」


 ーーあぁ、俺は……負けたんだ。

 見送らなければならない。2人の人生を。

 輝かしい門出を。





 ーー胃が、壊れそうだ。

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