シーン47「あたしの鎖」
駆けても駆けても消えることのない光。そんな真っ白な光の中を、パーシアはただひたすらに走っていた
辺りには誰もいない。色も形もない虚無の空間が、必死なパーシアを嘲笑うように周囲を隠している。
出口はどこだろう。まっすぐ進んだこの先に?
いや、他にもあるはずだ。違う、あったのだ。ただ、見えないだけだった。ものを映す目は、身体の前の方に二つしかついていない。
いつも不安で煮えている、頭と心も一つずつ……。
不器用な身体だった。
やがて晴れていく光の外へと、パーシアは思い切り飛び出した。
◇
(どこに消えたのかしら?)
大きな羽ばたきの音は、確か町の南へと向かったはずだ。銃撃部隊も廃墟となった駅を後にし、ドラゴンを追いかけて東サザナミ森へと向かっている。
だが、そこにあの人はいない。わざわざ駅にまで姿を現しておきながら、元居た場所に戻るとは考えにくい。彼はきっと、町にいる。自分恐れ、避け、無人となったグローニャの町。誰もいない静かな場所が、特殊な目を持つ彼の安寧の地なのだから。
(でも……一体どこへ?)
人のいない町を、パーシアは一人彷徨った。あの特徴的な紅い鱗は、どれほど町中を探しても見当たらない。交番、工場、静まり返った中心街。彼の家がある通りにも、港に繋がる階段にも、彼の気配はやはりない。森で二人で住んでいたあの頃のように、迎えに来る様子も当然のようになかった。草木も息を潜めた町の中、バタバタ足音を響かせて、南イリヒ森の見える大きな坂を下る。ここにもきっと彼はいない……そう思った。
坂を下りきる、そのときだった。落葉した木々の向こう……いや、ナナカマドの三姉妹の向こうに、ちらりと紅い影が見えた。
影は、家の裏へとすうっと姿を消し去った。やがて見えなくなった紅い影は、黒くくすんだ窓ガラスの奥にぼんやりと現れた。
家主が消え、冷え切った家の中。その中でたった一人、自分との記憶を巡らせていると思うと、パーシアは胸が締め付けられそうになった。彼は待っているのだろうか……あたしの帰りを。他に行く場所もなく、孤独の中で……。
町には風音だけが響いている。パーシアはそうっと片足を持ち上げて、広い住宅街を歩き始めた。彼までの短い距離をゆっくりゆっくり進んでいく。そんな自分に、ひどく嫌気が差す。あの人の姿に目を留めて、大喜びで駆けていく……「ダーリンダーリンあたしのダーリン」と、ニッコリ笑顔で胸に飛び込む……。かつてはそうだった。けど、今はもうその気持ちも失っている。門扉に手を置いたとき、パーシアは気づいてしまった。
(リズとおんなじ手だわ……)
人間の手をしている。今朝、一緒に駅まで走ったリズと、おんなじ手。
ここに来る前、焼けた汽車の傍で、腕を掴んできた男が言っていた。「あれは化け物で、君は人間だ」、「君の行くべき場所じゃない」、と。
あたしは、どうしてここに来たのかしら? 門扉を掴んだまま、パーシアは考えた。ドラゴンの攻撃を受けたあのとき、みんなと一緒に逃げることも出来たはずだ。あたしの帰りを楽しみにしているリズのもとに、帰ることも出来たはずだ。
でも、そうしなかったのは……。
パーシアは大きくかぶりを振って、乱暴に門扉を押し開けた。玄関までの細いあぜ道を、地を踏みつけながら進んでいく。
これはけじめだわ。あたしが背負わなければいけない罪なのよ。
無意識に浮かんだ言葉に、力強く目を瞑る。何よ、罪って。
(あたし、ダーリンを愛していないのね)
ドアノブを握り締めた手が、重い玄関の扉を開いた。中に入って僅かに首を捻ると、重々しい尻尾を膝に乗せ、深々とソファに座るダタールがいた。ダタールは驚いた様子もなく、静かに振り返った。離すまいと必死にしがみついた腕、何度も熱く重ねた唇。幾度となく安堵させられた顔が、そこにはあった。
「ダーリン……」
「お邪魔しているよ、パーシア」
少し見ない間に、鱗は増殖していたようだった。だけど、自分を見つめる緑の目は、かろうじて鱗の波に呑まれずにいる。ダタールはのそりと立ち上がると、二色の目を細めた。部屋の空気が冷たいからか。口端は上がっていたが、その笑みはどこかぎこちなかった。
「……」
沈黙が流れた。ダタールは長い尻尾を引きずって、暖炉の傍へと歩いた。
パーシアも、「お待たせしちゃったわね」と言って歩き出したが、取り繕うようなその声色に自分でも少し悲しくなった。もう前のようには戻れないのだ。それを悟ってしまったからかもしれない。
歩きながら、パーシアは俯いた。とそこで、ふと足を止めた。床に細かな破片が落ちている。
どろりと赤黒いものをつけた、ガラスと鏡の破片だ。その瞬間、チクリとした痛みが胸に、けれども不思議と心地よい感覚で襲ってきた。
破片の横に目を向ける。そこには何もない。ただ埃を被った床があるだけだ。だが、パーシアの目には一人の少女が映っていた。少女は膝を抱え、耳についた破裂音と、部屋を満たしたジャムの匂いに、暗鬱な表情を浮かべていた。
「あ、ごめん。僕かもしれない」
目を開いて、慌ててダタールが言った。
「ここに来たとき、疲れていたんだ。だから、気づかないうちにぶつけたのかもしれない」
くるりと身体に尻尾を回し、その悪戯な先端を片手に掴む。ついさっきまで駅を襲い、荒々しく火を吹いていたというに、今はまるで小動物にでもなったみたいだ。
本気で自分のせいだと思っているのか、その顔は暗かった。けど、だからといって歩み寄る気配はなく、頑なに距離を離してこちらの様子を伺っている。怯えているのかしら? 何の力も持たないあたしを? パーシアはすっかり委縮してしまったその厳つい身体に、思わずぷっと吹き出した。
「違うわ、あたしがやったの」
無残な姿となった鏡を見て、パーシアが言った。
「だってちょっと可笑しいわよ。尻尾がぶつかっただけなら、こんなに激しく飛ぶはずないわ」
ダタールはパーシアの目線を辿って、鏡だったものを見ていた。木枠で囲ったただの鏡。割れていること以外、特にこれといって変わったことのない普通の鏡だ。
だけどあの日、彼は見ていたはずだ。そこには、他の鏡にはない特別なものが存在していた。結局、何かは教えていない。どうしてか恥ずかしくて、話す気にもなれなかった。
パーシアはそっと屈みこんで、ガラスの破片を拾い出した。それが、アンヌに対する僅かながらの謝罪になる気がした。あのときは、彼女の残した遺言が憎くて仕方がなかった。あたしがあたしでいたことが、ひどく腹立たしかった。
「あたし、おばあちゃんに甘えたかったんだわ」
拾いながら、パーシアは呟いた。
「自分が醜くて、嫌だった。こんなあたしを必要とする人なんて誰もいない……そう思ってたの」
頭にリズの顔が浮かび、パーシアはそっと微笑んだ。あたしの大切なお友達……あの子にはもう、会うこともないだろう。
(リズは馬鹿よ。あたしに価値があると思ってる)
そして欠片を拾うように一つ一つ、これまでのことを振り返った。これは辛い記憶なんだと長い間思っていたが、奇妙にも心は暖かかった。
「それもこれも、全部おばあちゃんのせい。あたしを愛してくれた、おばあちゃんのせい。勿論、そんなはずないわ。だって……」
と、パーシアは一度言葉を飲み込んだ。たとえその火に焼かれても、大きな手に首を絞められても、最早何も怖くない。失うものも、大してないのだから。
「だって……あたしはオリガさんを追い出したの。オリガさんを必要とするあなたから、引き離したの。独りになりたくない……それだけの理由よ。ただのあたしのわがまま。そんな子供みたいな理由に、おばあちゃんは関係ないわ」
パーシアは一瞥もなく粛々と欠片を拾っていった。手は、鏡とガラスの鋭い破片で血だらけになっている。けど、そんなのは他愛のないことだ。それに、罪滅ぼしには軽すぎる。
やがて、重苦しい沈黙を破るようにダタールが動き出した。ダタールは欠片の上に大きな影を落とすと言い出した。その声は、淀みもなくはっきりしていた。
「僕も手伝うよ」
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