シーン45「あたしの友達」
脇に寄せられた湯たんぽは、すっかりぬるくなっていた。布団の外は冷えていて、少し肩を出しただけですぐに熱が逃げ去った。
パーシアは瞼を開くと、のそりと起き上がって布団の上に手を置いた。昨晩ここに脱ぎ捨てた服がなくなっている。急いでベッドから降りると、するんと足を滑らせそうになった。どうやら探していた服は、床に落ちていたようだった。
パーシアは服を拾い上げ、暗がりの中、手探りで着替えを始めた。朝陽の姿はまだ見えない。星の光が残る空を覗き込み、手櫛で髪を整える。
「おはよ、パーシア……」
ベッドに眠る影が、うっすらと瞼を開いた。
「早いね。もう着替えたの?」
「ええ。おかげ様でぐっすりよ」
「まだ時間あるよね? 私はもう少し寝てようかな。寒すぎてちょっと風邪っぽいかも」
「あら、それはお気の毒に。そうね。ゆっくりお休みなさい……」
地平線を滲ませながら朝陽が昇ってきた。朝の寝ぼけた光は、パーシアの黒くて短いくせ毛の髪を爽やかに照らしていた。
パーシアは枕元のプラトークを掴んで、それを丁寧に広げて畳んでから、いつものように頭を覆った。そうして身支度を終えると、足音もなくドアに向かい廊下に出ていった。
廊下には、ちょうどボリスの妻がいた。彼女に台所の使用許可をもらい、パーシアは正面口から牛舎に向かった。まずは牛乳を用意するところから。運よく居合わせたヘレジーンの長男から説明を聞き、牛の乳を洗って、乳缶の半分ほど生乳を分けてもらう。牛舎を出る頃には、外はすっかり明るくなっていた。星が透明なカーテンに隠れ、空が黒い毛布を剥いでいる。鼻穴を広げて新鮮な空気を吸い込み、パーシアはログハウスに戻ると早速生乳を鍋に掛けた。すりおろしたリンゴを入れて、小さな泡が出たところでマグカップに移し替える。甘くて白い熱い湯気が、パーシアの冷えた顔を優しく包み込んだ。
「あら、ぼくも飲む?」
昨日アメをくれた少年が、テーブルの端から覗き込んで、ふるふる首を振った。
「顔に跳ねたら危ないわ。こんなに小さくても、絹みたいに柔らかくても、ひとたび肌に触れたら針の一撃のごとく痛むのよ?」
少年は無言で走り去っていった。すると、ソファに腰かけていた老人が感心したように言った。
「昨日は疲れただろうに、こんな朝早くから起きているとは大したもんだ。やはり兄妹だな。君の兄さんにそっくりだ」
パーシアはしばらく黙り込んだ後で、口を開いた。
「おじいちゃん。あたしリズじゃないわ。パーシアよ。リズのお友達」
「ははっ、そうか……失礼したな」
マグカップを持って廊下を渡り、パーシアは部屋へと向かった。中に入ると、リズはちょうど起きたばかりなのか、布団を剥いで目を擦っていた。
「何それ、ホットミルク?」
「ただのじゃないわよ?」
湯気の立つそれを啜って、リズは目を見開いた。
「あっ、リンゴが入ってる」
「昔おばあちゃんが作ってくれたの。あたしが風邪をひいたときの唯一の楽しみだったわ」
「そっか……一回会ってみたかったな。すごく優しそうだよね。パーシア、おばあちゃんのこと大好きだったみたいだし」
パーシアもベッドに腰かけて、ホットミルクを飲んだ。リズの言う通り。アンヌのことは本当に大好きだった。
「……リズ、あなたちょっと誤解しているわ」
「何が?」
「あたしだって、疑問に思わなかったわけじゃないのよ? みんなのよそよそしい態度を見て、あたしの振る舞いはあんなものでいいのかしらってずっと悩んでたわ。……けど、それでもあのままでいたのはおばあちゃんがいたからよ。おばあちゃんはあたしが大好きだった。あたしを誇らしく思ってたのよ。だから周りから顰蹙を買っても平気でいられたんだわ」
久しく会っていないあの三人の、暗く、冷たい声が頭に響く。アンヌに対する疑義の念……吐き気がするほど不快で、苦痛だった。
「でも本当は、おばあちゃんを理由にしてるだけ。あたしが自分を変えたくなかったのよ。……あのとき、おばあちゃんの悪口を聞いたわ。とても嫌な気分だった。けど、そうさせたのはあたし。あたしがおばあちゃんを傷つけたの。ユリアもタチアナも何も悪くないわ。間違っていたのは、あたし」
リズが一瞬口を綻ばせた。が、すぐに眉を吊り上げて言った。
「やめてっ。そんなこと言ったら私はどうなってたの?」
マグカップの中に指を突っ込んで、リズは牛乳に浸された髪の毛を摘まみとった。
「ほら、パーシアが変なこと言うから髪の毛入っちゃったでしょ。これから出発ってときにおかしなこと言わないで」
パーシアは思わず唖然とした。『出発』……。汽車の音と駅の人混みと、長い尻尾を引きずった紅い鱗の生物が頭を過ぎる。
「町に戻るんでしょ? やっぱり。発車時間は八時だったから、あと一時間半だね」
パーシアは口の中で無意識に、懐かしくも、どこか新鮮な言葉を呟いた。
(ダーリン……あたしの、ダーリン……)
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