シーン44「あたしの奥から」


 ベッドの用意は想像以上に時間がかかった。そのためリビングに戻るときには、家の人はすでに夕食をとり終えていた。

 二人はテーブルに着くのも億劫で、隅に置かれた木箱を椅子代わりに、みんなが残してくれた夕食を食べた。パンと牛肉と、牛乳を使ったスープ……。一本のロウソクの僅かな明りの中で、二人は湯気の立ち昇るスープを啜った。


「あちっ! まだ熱かったのね、このスープ。舌が火傷しちゃったわ」

「あーあ、やると思った。急いで食べるからだよ」

「あらリズ。あなたは違うっていうの?」

「ううん。実は、一足先にやってたんだよね」


 夕食を終えて湯を沸かし、二人は部屋へと向かった。手にはじんわり熱い湯たんぽ。一応夕食前に部屋を暖めてはきたが、快眠にはまだ少し物足りない。

 部屋に入ると、リズは早速湯たんぽをベッドに忍ばせた。それからさっさと寝間着に着替えて、布団の中に潜り込んだ。パーシアは湯たんぽを抱えたまま、窓の外をぼんやり眺めていた。青白い月が、夜空の上で煌々と輝いている。


「どう? パーシア。悪くないでしょ?」


 枕に頭を埋めて、リズがにやにや笑いながら言った。


「ここで一緒に暮らすっていうのもいいんじゃない? ほら、動物も平気みたいだし、空気もいいし静かだし、何より気楽にいられる。……まあ、仕事をしに来てるからね。そればっかりってわけにはいかないけど、でも……どう? 少し考えてみた?」


 横目でちらりとリズを見て、パーシアは再び窓に目を戻した。初めは全く乗り気じゃなかったが、確かにそうして条件だけ見てみると悪いことではないかもしれない。けど、ここに来たのはあくまで手違いがあったからだ。決して内見をしに来たんじゃない。よくてここは今夜の寝床、それだけだ。それに……あたしの居場所はあの紅いドラゴンの傍。心が安らぐ、唯一の場所だ。


「今日のことは礼を言うわ。あたしだって、そこまで不躾じゃないもの。でも、明日の朝には帰るわよ? ここに来る予定なんてなかったもの」

「あっそ」


 素っ気ない返事ではあったが、リズの表情は穏やかだった。


「でも……今日は楽しかったでしょ?」


 パーシアは何も答えず、黙っていた。


「私は楽しかったよ。初めての景色っていうのもあるけど、のびのび出来て気分もよかった。まあ、パーシアにはこの気持ち、わからないかもしれないけど」

「どーいう意味よ?」

「違うよ、そうじゃなくて。パーシアにはわかりきっていたことなんだろうなって、そう思っただけ」


 ぐるりと寝返りを打って、リズは真っ暗な天井を見つめた。


「私はみんなに合わせることだけが全てだった。嫌われないでいることが全てだった……」


 煤けた天井に、遠い過去でも映し出されているかのようだ。


「でも、パーシアっていう人はそんなのお構いなし。私はぎゅうぎゅうに押し込んでいたのに、全然そうじゃなかった。時々、もっと早くに会えたらなぁって思うことがあるけど……まあ、もういいや。こうしているだけで十分。これでも一応、無欲な淑女に育てられたからね」


 と、リズは自嘲するように笑い、優しい目をパーシアに向けた。


「もうあの頃のように怯える必要はなさそう。感謝してる……」 


 パーシアは胸からお腹へと、ゆっくり湯たんぽを下ろした。しばらくそこに押し付けていたせいで、胸は焼けるくらい熱くなっていた。

 ふと、リズの灰色の目を見て、パーシアはボリスの言葉を思い出した。自分が励ましたおかげで、リズの心は解放された……彼はそう、夕陽に染まりながら言っていた。

 けれど、自分は何もしていない。リズを励まそうと思ったことなんて一度もない。

 ただ、自分は自分の心に従って、勝手気ままに生きてきただけだ。

 あたしがただ、あたしでいただけだ。


「……ここ、隙間風があるね。寒くなってきた」

「そうね」


 パーシアもベッドに入ろうとして、湯たんぽを布団に挟めた。焼けるような湯たんぽを離しただけで、身体は一気に冷え込んできた。全身が、痺れたかのようにぶるりと震え出す。熱い何かも、身体の奥から込み上げてきた。あ、そうだわ。あたし、おしっこに行かなきゃ。

 だが、熱いそれは別のところから流れてきた。透明な粒となって目から溢れ、瞬きと同時に千切れては頬に流れていった。胸の奥底が、妙な熱を発している。さっきとは違う小さな震えが、音も立てず静かに、心臓の方からゆっくりと忍び込んでくるのをパーシアは感じていた。


「寝ないの? パーシア。風邪引くよ」


 パーシアは頭のプラトークに手を伸ばし、それをむしり取ってベッドに放り投げた。そして急くような手つきで服を脱ぎ、寝間着に着替え始めた。

 寝間着には、必死に息を殺しているうちに着替え終えていた。温まったベッドに入り、頭の天辺まで布団を被った後も、パーシアはハラハラ零れる涙を抑えるようにきつく唇を噛んでいた。腕に何かが絡まってくる。先ほど放り投げたプラトークだ。解いて布団の外に出そうとして、パーシアはぴたりと手を止めた。


 月光を浴びたプラトーク。その隅で、小さな刺繍が光っている。

 ある午後の日、鼻歌を鳴らしてこれを縫う隣で、アンヌは気持ちよさそうに寝息を立てていた……。

 懐かしい感覚が蘇る。皺だらけの手、暖かい胸、自分を抱きしめる、強くも優しい二本の腕。

 自分を呼ぶ声。励ましてくれたあの言葉。


 『大丈夫。あなたを愛してくれる人は必ずいる。だから、恐れないで』。


 そして、激しく割れた鏡の音も、一気に溢れたジャムの香りも……。

 すぅすぅ、と寝息が聞こえてきた。見ると、リズが安心しきった顔で、ぐっすり眠りについていた。

 パーシアも静かに目を細め、そっとプラトークを見やった。銀の刺繍にアンヌの姿を思い浮かべ、ギュッと抱きしめ、キスをした。


(ごめんなさい、おばあちゃん……大好きよ)


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