シーン40「あたしの約束」
氷が溶け、雨も止み、地面は乾ききっていた。微かに残っていた焦げ臭さも消え、今朝は湿り気のないからっとした空気が流れていた。
ダタールの身体は、あれから更に変化していた。二度目の竜化を機に紅い鱗も増え、身体がよりドラゴンに近づこうとしている。人肌が残っていた右の肩も頬も、今は僅かではあるが鱗が生えていた。だが、緑の目とそばかすはそのままだ。パーシアは隣でしっかりと手を繋いで、それを確かめていた。
そのとき、腹の奥から雷のような音が聞こえてきた。
ぐごおおおぉぉ……。
「お腹空いたの? パーシア」
「ええ、ちょっとだけ。けど、そろそろ厳しい頃なんだわ」
ダタールが竜化をしてから二日が経つ。その間、パーシアは町に出ることなく、ずっとダタールの傍にいた。食糧の補充をしなかったせいで、食事はほとんどとっていない。カビかけのパンとジャムはかろうじて残っていたが、それも昨日で尽きてしまった。そろそろ町へ食糧を探しに行かなくては。これから先も、彼と一緒なのだから。
「町に出るの?」
我に返って、パーシアはダタールを見下ろした。空腹でぼんやりしていたのか、手を離して立ち上がっていたことにも気づかなかったようだ。
「あ、そうね。ご飯を食べなきゃいけないもの。お腹を空かして倒れるわけにいかないわ」
「そっか、そうだね。じゃあ……どうしても行かなきゃいけないよね」
パーシアは鞄へと歩いて、町に出かける準備を始めた。ダタールはそんな彼女の後ろ姿を、遠くからじっと眺めていた。長い尻尾を引きずって、ゆっくりと歩み寄る。パーシアが振り返ると、ダタールは陰鬱な表情を浮かべて立っていた。
「どうしたの? ダーリン」
「ううん、何でも……。大したことじゃないんだ。ただ、すぐに戻って来てくれればいいなって、そう思って」
「あたしがいないと、不安なの?」
何故だか知らないが、つい試すような言い方をしてしまった。ダタールは慌てて首を振ろうとして、観念したように失笑した。
「もしかしたら、そうかもしれない。君が傍にいると安心するんだ。だから本当は、この瞬間も離れていたくない」
そう言うと、ダタールはふわりと身体を包み込んだ。パーシアは彼の熱を感じながら、それに応えるように、背中に腕を回した。
以前はあんなに夢見心地でいられたのに、今ではただ、岩に挟まれたような気分だ。脳裏に浮かぶ白いドラゴン……きっと、あれからだろう。自分の中で、何かが狂ってしまった。彼女の戸惑う顔と、慌てて飛び去る後ろ姿が蘇る。胸がモヤモヤして、らしくない疑問も頭に浮かんだ。
(あたし、どうしてこの人のことが好きなのかしら?)
そのとき、頭の天辺に柔らかな感触がした。ダタールがゆっくりと唇を押し当てて、こちらの柔らかな唇を探ってきた。
「好きだよ、パーシア」
じんと暖かいそれが、パーシアの口を塞ぐ。力強い腕と、情熱的な口づけ。二人の唇が吸い付いて、そっと離れていく。
彼の二色の目は、いつにも増して切なげだった。そんな悲しそうな顔をされると、胸の中で何かが煮えたようになって、つい慰めたい気持ちになってしまった。パーシアは力いっぱい彼の身体を抱きしめて、ふふっと笑った。あたしったら馬鹿ね。何ヘンなこと考えてるのかしら。
「んもぉ、ダーリンったら。別に今生の別れってわけじゃないのよ? そうしんみりしなくたってヘーキよ。あたしはちゃんとダーリンのもとに帰ってくるわ」
そして、約束を取り付けるようにまたキスをした。
「あたしも好きよ、ダーリン」
パーシアは早速町へと旅立った。ふと振り返ると、ダタールが幹の間から顔を覗かせ、名残惜しそうにこちらを見ていた。遠くを見渡せるドラゴンアイもあるのに、それでも身を乗り出して、自分の姿を目で追っている。
パーシアは大きく手を振って、森を駆け出した。さっさと用を済ませてダーリンのもとに戻らなきゃ。食糧はいくつ必要かしら? この生活は、一体いつまで続くのかしら……。
気が付くと、森を抜けて閑静な住宅街を走っていた。そこでパーシアは、今更ながらにハッとした。あら? いなかったわ。いつも森の周りをうろついている警備員。
大通りももう間近だ。ここに来るまでの間、人の気配は全くと言っていいほどなかった。不思議に思いながら歩いていると、前方から声が聞こえてきた。二人の男性が機関銃を抱えて駆けてくる。森の警備を任されていた警察官だ。
「こらっ、ここは立入禁止区域だ。許可なく入るんじゃない」
「道に迷ったのか? いずれにしろここは危険だ。彼らと一緒に避難しろ」
有無も言わさず、警察官は背中を押して幌トラックまで歩かせた。この近所に住む民間人を運んでいるのだろう。トラックには、歩くのが不自由な老人や病人が乗っていた。
「ま、待って、あたしっ……!」
迷子じゃないわと言おうとして、突然ぐごおぉぉ、と鳴り出した腹の音に邪魔されてしまった。
警察官は短い沈黙の後で、深刻そうに顔を見合わせた。
「またか……全く、腐った輩もいたものだ」
「他に被害はなかったか?」
話がよくわからず、パーシアはただ目を瞬かせるだけだった。
「まあ、その話はあとだ。ひとまずトラックに乗りなさい。君は盗難に遭ったようだが、駅に行けば不自由なく避難の用意を手伝ってくれるはずだ。心配しなくていい」
話が全く読めないまま、パーシアは腕を引かれトラックに乗せられた。我に返って抵抗しようとするも、またも腹の虫に邪魔されてしまった。
「大丈夫だ。その件についても心配いらない」
警察官の合図で、トラックが発進した。トラックはガタガタ荷台を揺らして、パーシアを町へと連れ出した。
「ちょっとっ、何? どういうことなの?」
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