シーン38「あたしのジェラシー?」
森の中は薄暗かった。太陽は雲に隠れ、微かに覗いた青空だけが森をうっすら照らしていた。
迎えはすぐにやってきた。紅色ではない、蒼白色の半人半竜だった。パーシアは息を切らして足を止めた。二つの金の目にはどんなふうに映っていたのだろう。そっと歩み寄ってくる彼女の顔は、どこか不安げに見えた。
「パーシアちゃん。どうしたの? 何かあったの? ご飯、買えなかったの?」
ここに来るまでの間、彼女は自分の中で酷く憎たらしい顔をしていた。だけど、こうして会ってみると全く印象が違っている。今朝、自分があげた自慢のお菓子を幸せそうな顔で頬張っていた女の子。二つも年上なのに、無邪気で子供っぽくて、どこか頼りないお姉さん……。
本当にこんな人が、あたしとダーリンの仲を引き裂こうとしているの? 一瞬そんなことを思ったが、パーシアはすぐにその考えを打ち消した。そうよ。ダーリンを奪おうとしてるのは事実。この人はドロボーよ。ドロボードラゴンなのよ。
「ダーリンは? あたしのダーリンはどこにいるの?」
「ダタール君? それなら寝てるよ。でもすぐに起きると思う。私もそうだったから」
「そう……ねえ、何かあたしに内緒にしてることはない?」
「『内緒にしてること』?」
「ええ。あなたとダーリンが知っていて、あたしだけが知らない内緒のこと。何か隠してるでしょ? あたしにはわかるのよ」
オリガは記憶を巡らすように目線を上げ、やがて感心したように目を輝かせた。
「すごいなぁ、パーシアちゃんにはわかるんだ」
「ええ。多分、女のカンってやつよ」
「あのね、昨日の夜ダタール君と話をしたんだ。弟のこととか色々。こんな身体だけど何かできないかなって考えて……それで、やっぱり弟を助けられるのは私だけだから、もう一度方法を考えて訴えようって話をしたら、ダタール君賛成してくれたんだ。だったらパーシアちゃんにも相談しようよってそのあと二人で話したの。人数は多い方がいいと思ったから」
思っていたのとはちょっと違っていた。パーシアは拍子抜けしそうになるのを抑えながら言った。
「たぶらかしたんじゃないの?」
「たぶ……え、何?」
パーシアは小さく目を丸めた。え、『たぶらかす』よ。聞こえなかったの?
いや、これはきっと演技だわ。この人、知らないふりをしているだけなのよ。そーよ、そうだわ。『ドロボーは嘘つきの始まり』って言うもの。
「あなた、あたしのダーリンを騙して自分のものにしようとしたんじゃないの?」
「えっ? ううん。昨日の夜は私達、ずっと弟のこととドラゴンのことについて話してたんだよ。ダタール君が聞いたドラゴンの声、私が聞いたのとは違うみたいだけど、中身は同じだったみたい。でも、どうして私達をドラゴンにしたんだろう、ってずっとそんな話をしてて……」
「そうじゃないわ。そんなことが聞きたいんじゃないの。二人で何か、隠してるんでしょ? あたしに知られたらまずいこと、何かあるんでしょ?」
「ううん、ないよ。あとは私、パーシアちゃんの寝顔を見てただけだったし……」
そこでオリガはハッとして、顔を俯けた。
「ごめん、一個だけあった。私、パーシアちゃんがうっすら目を開けてるのを見て、ちょっと笑っちゃった」
思考が止まりそうだった。どうやらこれ以上、求める答えは出てこないようだ。
オリガはダタールを誘惑していない。なら、彼の方が一方的にオリガに惹かれているということだろうか。それともこれも、彼女の巧妙な嘘……?
だが、そんなのは最早どうでもよかった。理由なんて何でもいい。ダタールが自分を置いてオリガのもとへ行くのは、時間の問題なのだ。
だって、二人にはドラゴンの鱗と翼がある。
二人が互いを意識する立派な証拠だ。あたしにはない。
「あなたは、ダーリンを奪おうとしてるのよ」
「『奪う』? 何で?」
「理由なんてどうでもいいわ。あたしのダーリンよっ! ダーリンを取らないでっ、邪魔しないでちょうだいっ!」
「どうしたの? 今朝まであんなに……」
途端、オリガが息を飲み込んだ。と同時に、辺りが急に冷えてきた。空からぽつりぽつりと雨が降ってくる。しかし、原因はそれだけではない。
口を覆ったオリガの手から、白い息が漏れていた。息はオリガの両手を凍らせ、霧のようになって蒼白色の身体を包み込んだ。輪郭も隠した冷気の中でも、金の瞳は禍々しく光っている。オリガはその目を僅かに落とすと、寂しげな、けれども毅然とした眼差しでパーシアを見つめた。
「……わかった。パーシアちゃんの邪魔はしないよ。弟のことも、私一人で何とかする。だって、これは私の問題だから」
オリガは白い霧を纏いながら、一歩ずつパーシアから後ずさった。
「迷惑かけて、ごめんね。でも、二人に会えてよかったよ。私、ずっと一人で寂しい思いをしてたから……」
いよいよ冷気がオリガの光を飲み込んだ。オリガが深い息を吐くと、地面が一瞬のうちに凍り付いた。
パーシアが顔を上げたときには、もうすでにオリガの姿はなくなっていた。今は巨大な蒼白色のドラゴンが、苦しそうに呻いて氷の息を吐き散らしている。
大きな瞳は、時折こちらを切なげに見ていた。そして、大きな音を立てて翼を広げると、白いドラゴンは天高く空に飛び上がった。ふらふらと覚束ない羽ばたきで、遠い空へと消えていく。
弟と祖父の待つ、東の空へと……。
濁った雲の色に溶けていくと、呆然と立ち尽くすパーシアのもとにダタールがやってきた。
「あれ、オリガさんは?」
パーシアは声を振り絞った。
「帰ったわ……」
「『帰った』? どこに?」
「わからない。とりあえず、帰ったのよ」
「じゃあ、またしばらくしたら戻ってくるんだね?」
パーシアはぎゅっと拳を握った。そんなにあの人が気になるのだろうか。
「戻ってこないわ。もう戻ってこない。弟さんのことも、全部自分で解決するって」
「え、急にどうして? 昨日の夜、言ったのに。僕に……僕達に協力してもらいたいって……」
「でも、言ってたのよ。はっきり言ったわ。これは自分の問題だから一人で解決する、って。とにかくもう戻ってこない。あの人は、一人でも大丈夫なのよ」
パーシアはそっと、隣に立つダタールを見上げた。ダタールは冷たい雨を降らせた雲を、虚ろな、悲しげな目で眺めていた。
こんなとき、自分にはやるべきことがある。
パーシアはだらりと垂れ下がった彼の手を、優しく掴み取った。
「心配しないで、ダーリン。少し寂しくなるけど、ダーリンは一人じゃないわ。あたしがいるもの」
硬く、ごつごつした彼の腕に柔らかな身を寄せる。
「あたしはダーリンの傍を離れないわ。だから、そんな顔しないで。好きよ、ダーリン」
ダタールはようやくパーシアを見て、プラトークに包まれた小さな頭に触れた。
「ありがとう……僕も、パーシアが好きだよ」
彼の身体は、毛布のように暖かいはずだった。
けれど、地面に広がる氷のせいか、この日は少しも暖かくならなかった。
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