シーン37「あたしは独り」
パーシアは靴音を鳴らして、家の中へと入っていった。中は冷えていた。キッチンも散らかり、食糧を漁った跡もしっかりと残されていた。数日前の自分は、これから始まる新生活にウキウキしていたようだ。そんな自分が、今ではとても腹立たしい。
力強く床を踏みつけ、パーシアはキッチンまで歩いた。そのとき、目の端に黒いものが映った。
木製の鏡の縁にニョロニョロと綴られた、おばあちゃんの遺言。
『素直はあなたの宝物よ、パーシア』……読みたくはなかったが、目が勝手に字を追っていた。
おばあちゃんの嘘つき。何が『宝物』よ、テキトー言っちゃって。
それがあたしに何をくれたの? 何もないじゃない、消えてくだけで。
おばあちゃんの言葉はまやかしだわ。その通りにしていいことなんて何もなかった。ただのおばあちゃんのエゴ。あたしのために言ったんじゃない。どうして気づけなかったのかしら。あの人が優しいふりをしてあたしを騙していたことに。あたしを励ました気になって、自己満足に浸っていたことに……。
能天気でおバカで、無責任なおばあちゃん。ずっと真に受けてきたあたしもおバカさんだわ。そんなやつのことを、ずっとずっと信じて生きてきたんだもの。
ふと足元を見ると、ジャムのビンが置かれていた。パーシアはそれを拾い上げ、遺言を睨みつけた。
そして大きくビンを振り上げると、思い切り鏡に叩きつけた。心臓を裂くような鋭い音が部屋中に響き渡り、赤黒いベリージャムがべったりと、アンヌの最期の言葉と、パーシアのひび割れたしかめっ面を汚していく。
ガラスの破片は、足のつま先まで飛んできた。身体はおろか、服や靴にも刺さっていない。けれどどうしてか、パーシアの胸はちくりと痛んだ。
(あたしがあたしという人間でなければ、何も問題なかったんだわ)
そんなとき、窓の外から声が聞こえてきた。見ると、庭のナナカマドと柵の隙間に、風に揺れるスカートがあった。
「ミーカちゃん、ミーカちゃん」と、女の人が誰かを呼んでいる。すると、茂みからチリンチリンと鈴を鳴らして、白い猫がゆっくりと現れた。泥で汚れた白猫は、女性の胸にひょいっと飛び乗って、身体を擦りつけた。真っ白なブラウスが泥で汚れていく。それでも飼い主は嬉しそうに、勝手気ままな猫の頭を優しく撫でていた。
(あたし、猫だったらよかったのに……)
最早立っているのも億劫だった。パーシアはぺたりと床に座り込み、静かに膝を抱えた。
周囲に飛び散るガラスの破片に、キュッと胸が締め付けられる。ベリージャムはあたしと同じね。友達、恋人、家族……信じてきたもの全て砕け散って、行き場を失い、どろりと床に崩れている。
垂れた頭をゆっくり上げて、パーシアはぼやけた視界の先のソファを見つめた。
大切な人と過ごしたソファだ。おばあちゃんとダーリンと、一緒になって温めた。だけど、今は誰もいない。ぬくもりを失って、すっかり冷たくなっている。ダーリンとはあんなに激しく身体を擦り付けた。たくさん汗もかいて互いの身体に染み込んでいった。匂いだってそうよ。うつったんじゃないかしら?
でも、それも全部過去のこと。汗も匂いも、いつかは消えていく。家の中も、あっという間にベリージャム臭くなった。甘酸っぱいあの思い出も……今なら素敵な思い出として、全て受け入れられる気がした。
グッパイ愛しのマイエンジェル
砕けて光る二人のハート
(……変だわ)
決意は固めたつもりだった。しかし、どうにも納得できない。
ダーリンがあたしを捨てる? そんなこと、本当にあるのだろうか。
だってお互いの気持ちは十分に証明しあったはずよ。ダーリンはあたしが「好き」って言ったし、あたしもダーリンに「好き」って言った。
お互いの身体に触れあって、一か所一か所温度を確かめた。あの日のソファでも、お互いを見つめ合い、滑らかな肌で抱き合った。あたしの尖った部分も引っ込んだ部分も、乾いた心と一緒に暖かく潤してくれた。甘い口づけだって交わした。それともあれは、ただアッツアツのハンコを押しただけだったのかしら?
まさか。そんなはずはない。あたしとダーリンは確かに愛し合い、心を通わせたはずよ。お互いを信頼しあって、愛し合っていたわ。ダーリンはあの森で、あたしの帰りを心待ちにしてたんだから。
――だけどそこに、青白いドラゴンが現れてしまった。
(ダーリンはもう、あたしの帰りを待ってないのだわ……)
パーシアはおもむろに立ち上がった。そして玄関を見ると、無心でそこに向かっていき、鍵を開けて外に出た。晴れ渡っていたはずの空は、今は分厚い雲に覆われようとしている。パーシアは門扉までの道を整然と渡っていくと、端を切ったように住宅街を走り出した。
一心不乱に坂を駆け上り。
あたしとダーリンの、あの森へと……。
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