シーン36「あたしの迷走」
「もう行くの? 私も途中までついてくよ」
「いいえ、いいわ……」
「そう?」
「あたし、一人で行くから……」
声が微かに震えていた。パーシアはくるりと背を向けて、まっすぐ森を歩き出した。遠ざかる男女の声を背に感じ、名残惜しむこともなく二人の傍から離れていく。枯れ木の森を、焼けた森を、茫然と幽霊みたいになって、彷徨いながら歩いていく。
(浮気、なのかしら……これが、浮気、なのかしら?)
ただの憶測なのは分かっている。けれど、何度考え直しても結果は同じだ。二人は、パーシアの頭の中でバレエを踊っている。ダタールとオリガ、二人だけの輝かしいステージ。まるでそれしか存在していないかのように、スポットライトが二人の身体を包み込んでいる。互いを求めて近づく二人。ライトが重なり合った途端、手を取り合い、翼を広げて空に飛んでいく……。自分は観客席からそれを眺めるだけだ。拍手はない。ただ、幕が下りていくのをしっかり見届けている……。
この日の空は曇りのない快晴だ。歩いても歩いても、周囲が暗くなることはなかった。
ふと我に返ると、いつの間にか森を抜けていた。運よく警備はいなかったようで、二日ぶりの人間を見つけたときは随分と森から離れていた。
どうして自分はここにいるのだろう。あの二人の傍から抜け出したい……ただその一心で、気づけばここまで来ていたようだ。
ゴツンッ。
とそのとき、何かに激しく頭をぶつけた。
パーシアは思わず尻もちをついて、両手で頭を押さえながら痛みに唸った。ううっ……、という唸り声は二つ。うっすら目を開けると、女性ものの靴が見えた。
「あっ、パーシア」
驚きながらも嬉々とした声が聞こえた。パーシアはドキリとして、目の前の少女を見上げた。
金の髪と灰色の瞳……嫌な予感が的中した。
パーシアは顔をしかめ、注意深く辺りを見渡した。前にも似たようなことがあったのだ。名前も思い出したくないあの子が、目も合わせたくないこの子の傍で、あたしの滑稽な姿を憐れむように眺めていた。
「まさかこんな形で会うなんてね。結構激しくぶつかったけど、大丈夫? 私はちょっと痛いけど、まあ、すぐに良くなるよ」
少女も両手で頭を押さえている。片方の手を離すと、少女はゆっくり手を差し伸べた。
「すごい急いでるみたいだけど、どこに行くつもりだったの?」
まさか、手を貸すつもりなのだろうか……。レザーコートから伸びた手を見て、パーシアは思い出した。あ、この子、「あたしが好き」って言った子だわ。「あたしのことが嫌いなんでしょ?」って訊いたとき、すぐに首を振った子。
けど、それが何だろう。『好き』と言ったから何なのだろう。少し喉を振動させればいいだけの、たった短い一言だ。言うだけなら簡単にできる。そこで本心を見せてくれるのはまた別のお話。……そうよ、あなた達のせいだったんだわ。あの一組の男女に、あたしが疎外感を覚えたのは。
「どこでもいいでしょ」
パーシアは自力で立ち上がった。
「どこへ行こうがあたしの勝手よ」
「でも、迂回した方がいいよ? 配給のトラックも増えてるし。あ、こっちなら通れるよ。一緒に行く?」
「イヤよ。行くわけないでしょ」
「あ、もしかして駅に用があるの? それならさっき行ってきたよ。二体目のドラゴンも目撃されたけど、運行期間は一週間から変わってないって。運行再開は、上りは午後から、下りは明日からみたい。行き先は? 決まったの? どこに住む予定なの?」
何よ『行き先』って……そんなの、あたしにあるわけないわ。
「あの、もし決まってなかったら兄さんの農場はどう? 兄さん、そこのお婿さんになって今は農場にいるんだ。私もそこで働くつもり。パーシアもどう? 私達と一緒に来ない?」
パーシアは鋭く眉を顰めた。『私達と一緒』? とんでもない。どうせそこにあたしの居場所はないのだわ。立証はされたでしょ。あなた達のおかげで十分に。
どうしてあたしの気持ちが分からないのよ。優しく声なんて掛けちゃって、一体あたしをどーしたいの?
何のつもりで『好き』って言うのよ。あなたも、あの人も……。
「絶対に行かないわ。あなた達と一緒なんて絶対イヤ」
「そう?」
「当たり前でしょ、知ってんじゃない。みんなあたしが大嫌い。あたしもみんなが大嫌い。何度も言わせないで、さっさとどっか行ってよ。あなたの顔なんて、あたしもう見たくないわ!」
怯んでいるのか、リズの言葉はなかった。ただ茫然とパーシアを見つめるだけで、動く気配もなかった。
パーシアは勢いよくその場を飛び出して、やがて見えてきた人だかりに足を止めた。確かにこの混みようでは、迂回した方が賢明かもしれない。
仕方がないので、パーシアはもと来た道を引き返した。さっきの場所には、変わらずリズがいた。パーシアはその前を、自慢の俊足で通り過ぎて行った。
「パーシア、明後日の十時、駅で待ってるからね!」
「もおっ! しつこいっ!」
中心街を抜けて、馴染みのある住宅街へと降りていく。眼下に見える南イリヒ森は、大きく枝を揺らしていて、強い風が吹いているのが分かった。色褪せた草がさらさらと靡き、午後の眩しい木漏れ日もちらちらと揺れている。この間までは恋の始まりを祝ってくれたのに、今はまるで嘲笑っているようだ、とパーシアは思った。
パーシアは急いで家の門扉を突き破り、玄関のドアに手を掛けた。しかし、鍵がないので開かない。
慌てて裏口に回り、古びた取っ手を手に掴む。力を込めて引っ張るだけで、扉は簡単に開いた。あの背高のっぽの彼も、こんなふうにして開けていた。あたしが手ぶらで工場から帰ってきた、あのときに。
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