シーン32「あたしのお客さん」


 騒がしい風の音に、パーシアは目を覚ました。眼前に映るのは落ち葉と枯れ木……そうだ、昨日の晩、あたし達はここで素敵な一夜を過ごしたんだったわ。

 パーシアはぐっと両腕を伸ばし、んーっ、と声を上げた。ふう、とやりきったような息を漏らして、隣で寝息もなく眠るダーリンに目を向ける。そこで、パーシアはガバリと身を起こした。

 由々しき事態だ。


(ダーリンが蒸発してる!)


 昨日までは確かにここにいたはずだ。身を切るほど冷たい森の中、布団も掛けずに熟睡することができたのも、ダーリンがあたしのホッカホカのお布団になってくれたからだ。

 しかし、そんな彼の姿は今はどこにもない。たった一晩で築いた二人の愛の巣から、完全に姿を消している。もしかして、本当に気化してしまったのだろうか。それとも別の理由だろうか。町の方から微かに警鐘の音が聞こえてくるが、それがその答え?


(ダーリン、ムショにでも行っちゃったのかしら?)


 いいや、それはあり得ない。寝ている隙に捕まったのなら、自分も一緒に目を覚ますはずである。それに、町の警鐘もとっくに鳴り止んでいるはずだ。それとは関係ない別の事件なら話は別だが。

 なら……逃げたのだろうか? 捜索隊を恐れ、安全な場所に逃げたのだろうか?

 あたしを置いて……?

 いや、もっとあり得ない。ダーリンは絶対、あたしを置いて逃げたりしないはず。昨日だって、あんなに熱い抱擁を交わした。熱いキッスもした。何よりダーリンはあたしを待ってた、あたしを心待ちにしてたのよ。


 ――でも、そう思っていたのはあたしだけだったのかしら?


 人気のない森には、早朝の風だけが虚しく吹いていた。パーシアはたった一人の愛の巣で、凍えるような空気に身を震わせていた。


 寒いわね、ダーリンがいないだけでこんなにも……。一体、あの人はどこへ消えたのかしら? あたしのいないところへ……あたしの必要のないところへ行ったのかしら?

 昨日会ったばかりなのに、もうすでにあのそばかすを散らした顔が恋しくて堪らない。爪を切るのも一苦労な彼。ヘンテコな話を熱量たっぷりに語る彼。最初は随分変な人もいたものだと思っていた。正直、今もその気持ちは変わらない。けれど、それでもキュートなあたしのダーリンよ。あたしの大事なダーリンよ。あたしの心と身体をじんわり温めてくれる、唯一の人……。

 だからこそ、この状況が耐えられなかった。彼がいなくなった今、自分は一体、どこへ向かえばいいのだろう……。


 そう思ったときだった。突然、幹の影がカサカサと揺れ出した。

 パーシアはびっくりして立ち上がった。幹の間の茂みから、何かがぬっと現れてくる。

 ごつごつした紅い足、いやに整えられた黒い爪……。初めは獣かと思って悲鳴を上げそうになったが、次第にその妙に清潔感がある足に違和感を覚え始めた。

 あんぐり口を開けたまま、恐る恐る目線を上げる。そこには、懐かしい顔があった。ずっと待ち焦がれていたあの顔……ぐつぐつ煮えていた胸を、一瞬で落ち着かせてくれるあの顔だ。

 パーシアは目を細め、涙を流しながら、愛しい愛しいその人に思い切り飛び掛かった。


「ああっ! ダーリン、ダーリンっ! あたしのダーリンっ!」


 ダタールはその冷たい身体を受け止め、優しく頭を撫でた。


「ごめんパーシア、待たせてしまって……」

「いいのよ、いいの。戻って来てくれただけで。変だと思ったわ。ダーリンがあたしを置いてどこかに行くなんて、そんなの……」


 と言いかけて、パーシアはドキリと胸を打った。ダタールの脇の下……そこに、蒼白色の不思議な岩肌と、深い影に埋もれた金色の小さな珠が見える。


「こんにちは」


 と突然、白い岩が純粋無垢な顔で喋り出した。パーシアは息も悲鳴も忘れて素早く後ずさり、その岩とダタールを交互に見やった。


「あ、そうだったね。紹介するよ、パーシア。この人はオリガさん」

「オリガ……さん?」


 改めて見てみると、白い岩は二本足で立っていた。そして頭の天辺からは、ウェーブのかかった長い栗色の髪……もともとは人間であったことを示している髪がそこから生えていた。

 オリガは白い鱗に覆われた顔で、ニコリと微笑んだ。


「あなたがパーシアさんだね。ホントだ、ダタール君の言う通り、人間だ」


 その厳めしく奇妙な見た目に反し、オリガの声はどこか間延びした感じだった。

 オリガは簡単に挨拶すると、握手を求めて手を差し出した。パーシアは未だ恐々とした様子で、その熊手のように長く伸びた青い爪先を、そっと指で摘まんだ。


「ダーリン……どういうことなの?」


 ダタールが口を開く。が、事情を説明する余裕はなかったようだ。

 金の瞳を揺らし、ダタールとオリガの二人がさっと振り返った。


「待って。この話はあとで。まずは逃げよう」 


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