シーン31「あたしたちの奇妙な夜」


 厚い雲が空を覆い、だんだんと日が暮れてきた。しばらく捜索隊の気配を感じなかったため、二人はその場で野宿を始めた。

 後で調べに行ってみると、捜索隊はどうやら警備だけを残し捜査を打ち切ったようだった。森は落ち葉と雑草だらけ。足跡もつかず、望遠鏡にも届かないところにいるため手掛かりもなく、森から完全に姿を消したと思われたに違いない。


 虫も動物もいない東サザナミ森は、今はパーシアとダタール、二人だけのものとなった。そんな静かで平和な森には、パチパチとダタールの爪を切る音が響いていた。

 昨日までなかった長い爪を、プルプル震えた手で切っていくダタール。まるで初めてのようなその手つきに、傍で見ていたパーシアは苛々していた。


(あぁんっ! ダーリンったらブキッチョね!)


 パーシアは夕食の青リンゴを切り終えると、ダタールの肩に引っ付いた。そしてドラゴンの腕をぐいっと引っ張って、ダタールの手から爪切りを取った。


「ダーリン、いいわ。あたしがやる」

「え……いいよ。慣れてきたところだし」

「でも疲れてるでしょ。ダーリンはゆっくり休んでて。……さ、リンゴよ。二人で分けっこしましょ」


 強引に引っ張られたドラゴンの腕が、パーシアの身体に押し付けられた。ダタールはその硬い腕が、彼女のフニフニした暖かいふくらみに埋もれていくのを感じながら、言われた通りリンゴを食べ、その手を彼女の肩に回した。こうした方が姿勢が楽、というのが一番の理由だったが、腕の中で照れくさそうに微笑む彼女を見ていると、最初から抱きしめたかった気になった。


(そうか……パーシアは僕にとって、『尽期の君』なんだ)


 ふとそんな言葉を思い出し、ダタールはまた自分の世界に入り込んだ。


 「そう、彼女こそが尽期の君である」……かつて生死の狭間を彷徨っていたフロイドル氏は、その数年後に出版した『白色回想録』で妻のナターリヤをそのように評していた。病のせいで醜い老人になろうとも、彼女はこれまでと変わらず夫を愛し、献身的に尽くしていたという。その間彼女は懸命に夫の手となり足となり……ん? ああ、思い出せない。そんな話だったろうか。

 ……まあ何にせよ、フロイドル氏のナターリヤのように、僕にとってのパーシアは『尽期の君』である。彼女はどれだけ自分が恐ろしい姿になっても、僕を捨てずに戻ってきてくれた。孤独に怯える僕のもとに、約束を果たしに帰って来てくれた。

 雨粒光る森。捜索隊から一人逃げ惑っている間、どれほど彼女を心待ちにしていたことだろう。こんな状況になった今じゃ、僕の心を救ってくれる者は最早彼女以外誰もいない。みんなが僕という異物を排除しようとしているのだ。助けを求めたところで一体どうなる。それに父は……きっと、僕がドラゴンだと知っても失望するに違いない。


「パーシア」

「なぁに? ダーリン」

「僕がまた昨日みたいな姿になったら、君はどうする? 僕も、自分がどうなるか分からない……制御したくても、昨日のようになってしまうかもしれない」

「『どうする』って……イヤよ、あたしダーリンと一緒よ。昨日だって追いかけたもの。それに、足には自信があるからなにかあってもすぐに逃げれるわ。心配ごむよー。……さ、おてての爪切りが終わりましたっ。これですっきりしたわね。じゃあ、お次はあんよ」


 和やかな時が過ぎて、夜がやってきた。風の音だけが響く、静かな夜だった。

 空には煌々と、満月と星々が輝いていた。昨晩と打って変わり、穏やかな夜空だ。ダタールは隣で眠るパーシアに目をやった。腕の中で眠る彼女は、その間も自分の存在を確かめていたいのか、うっすら開いた瞼から青い目でこちらを見ていた。


「かー……くぁー……」


 寝返りを打ち、パーシアは更に近づいてきた。彼女のおでこが唇に触れ、ダタールはそのまま目を閉じてキスをした。

 愛しい人……。彼女は本当に素晴らしい女性だ。最近特にそう思う。一点、いや二点、落ち着きがなく、たまにおままごとをしているかのような言い回しが気になるが……まあ、そんなのは些細なことである。彼女の存在は、最早僕という人間の一部だ。彼女の方もきっと、僕をそう思っていることだろう。


 ドラゴンの身体というのは、どうやら眠気を知らないようだ。ダタールは何度閉じても開いてくる目で、ぼんやり星空を眺めた。

 目の端に一瞬、何かが光る。流れ星だろうか……ならばこの身体から発せられる精神の息吹で、僕の潜在的嘆願を叶えてほしいものである。

 だが、それは流れ星ではなかった。突然、ダタールの身体が疼き出した。風を切る音が、ドラゴンの耳の中で鳴り響いている。やがてそれは人間の耳にも聞こえるようになり、空が光ったと同時にぴたりと鳴り止んだ。


 ダタールは咄嗟に上体を起こした。そして、海岸のある東を向いた。ドラゴンの金の瞳には、それが音を立てず静かに……けれど確かな存在感を放って降りてくるのが映っていた。


(……誰……?)


 ずっと遠くの波打ち際に、何かが立っていた。全身を覆った蒼白色の鱗が、月光で美しく輝いていた。鱗に囲われた黒いくぼみの中で、二つの金の瞳がこちらを覗き込んでいる。しばし見つめ合ったのち、その人は海に目を戻した。

 まるで手招いているかのようだ。ダタールはそっとパーシアの傍を離れ、導かれるようにそこへと向かった。少しずつざわめき出す森を、重い身体を引きずるようにして、ゆっくり歩いて行く。

 潮風に靡く長い栗色の髪……白い鱗に覆われたそれは、どうやら女性のようだった。


「あなたもドラゴンになっちゃったんだね」


 二足歩行で小さい……ただそれだけで、本物のドラゴンと変わりないその人が、砂浜を歩いて言った。


「あの……あなたは……?」

「オリガ」


 ダタールの驚きが、その瞬間納得に変わった。


「ああ、知っています。あなたのこと……」


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