シーン30「あたしを掴んだ手」


 状況も分からないまま、パーシアは森を駆け出した。鞄を抱えたダタールと共に、微かに焼けた匂いの残る森を、何かに追われるように走っていく。

 数分走ったところで、ダタールは足を止めた。駆けてきた方角を見て胸を撫で下ろしている。パーシアは相変わらず、何が何やらわからずにいた。周囲を見渡し、木の根にどっかり腰を下ろすダタールに、パーシアは手を掴んだまま尋ねた。


「ダーリン、どうしたの? 何かいるの?」

「ん……警察だよ。僕を追っている」

「ケーサツ? いたかしら、そんな人。いたらあたし達、とっくに捕まってるはずよ」

「ずっと遠くだけど、いたんだ。ドラゴンの目にははっきり映っていた」

「どういうこと?」


 ダタールは大きな尻尾をぐるりと丸め、何かに没頭するような目を落とした。


「わからない……。ただ、半分ドラゴンの体になったことによって、人的機能と同時にドラゴン的機能を両方体得することになったんじゃないかと推測しているんだ。フロイドル氏の推薦するあの『世界のあちら側』の編集長を務めているカラツキー氏の著書『世界生物の神秘とその真実』には我々人間の技術では未だ解析されてない生物の習性や能力について記載されていたんだけれど今回のように一つの身体に二つの生物機能が共存しているという例は実際の前例はおろか可能性の一つとしても提示されていなかったから僕が左目だけおおよそ二キロないし四キロ、いや五キロメートル先まで目視が可能になったのも左耳の聴力が以前と比べて僅かに鋭敏になったのも正直その著書に書かれていた考察にも当てはまらないから照合のしようがないのがとても残念でならないよ。ただフロイドル氏の提唱した『月の囁き』による影響は大いにあるのではないかと僕は考えていて昨日の月もちょうど満月だったし僕がこの姿ではなく巨大なドラゴンになってしまったのもそれ以前の問題としてあのおぞましく聳え立つ大木が奇妙で不可解な現象を見せたのも全て『精神の息吹』がドラゴンを始めあの大木にも作用したからではないかというのが僕の推測だ。精神の息吹による植物への作用はフロイドル氏もまだ研究を続けている最中だけど彼の助手でありコラムニストであるポリガーニン氏は独自の研究方法で『ク・ルクー・ル・プラントイヤ』つまり『渦巻く植物の耳』の意であるその……」


 もう聞いていられなかった。パーシアは意識が遠のく前に、全く以て意味の分からないその話をくるくる混乱している頭の中で整理した。


 つまり、ダタールはドラゴンの身体を持ったことによって、ドラゴンの力をも手に入れるようになった。そしてその力の中には五キロメートル先まで見通すことの出来る目があり、ダタールはそのドラゴンアイで捜索隊の動向も把握できるようになった、ということだろうか。

 こうなると最早、超能力である。ということは、家の角でこっそりしていたあんなことも、庭のナナカマドの前でするこんなことも、周りに人がいないからと安心したところで五キロメートル先のダーリンには全部丸見えということになってしまう。なんて恐ろしいのだろう……。彼は今や人間ではなく、人間の力を僅かに残したドラゴンなのだ。


 ダタールは気の狂う長話を終えると、ぽつりと呟いた。


「果たして僕の身体はこのままなのだろうか……」


 パーシアは改めてダタールの身体を見た。大きく広がった足、長く伸びた尻尾、背中に生えた棘と片方だけの厳めしい翼……。左の耳は鋭く尖り、左目は真っ黒で、その漆黒の中に畏怖するような金の瞳が輝いている。

 およそ人間とは呼べない姿だ。けれど、ダタールの手は未だ自分の手を掴んでいた。

 紅くて硬くてザラザラとした手。鍵のように伸びた黒い爪が、僅かに皮膚を刺してくる。

 おばあちゃんが亡くなって以来、誰も握ることのなかった手だった。これほど熱く、力強いのも初めてだった。

 パーシアはその手にもう一方の手を重ねると、静かに息をついて微笑んだ。


「あたしもわからないわ。でも、そのままのダーリンでも別にヘーキよ。たとえどんな姿になろうと、あたしがダーリンを好きなのには変わりないもの」


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