シーン23「あたしたちに忍び寄る影」
慣れない交番勤務から三日が経ったは良かったが、まさかイェゴリとヤコブも一緒だとは思わなかった。
幸い、彼らは夜勤だ。自分は日勤なので、一緒に職務をこなすことはまず避けられた。
だがたった数分とはいえ、交代の為に一度顔を合わせなければならないのは苦痛だった。特に今日は、一人でいたところに彼らが出勤してきたので、気まずくて仕方がなかった。すぐに巡査長が帰ってきたから良かったものの、ずっとあのままだったら息苦しい空気に窒息死していたところだ。
いや、その方が良かったのかもしれない。
「はぁ……」
冷たい風に吹かれながら、ダタールは港に繋がる階段を下っていた。
左手にあるのは今朝の新聞。それも、ついさっきまで交番に置かれていた警察署の新聞だ。
『オリガさん(二十)、ラスラ山に消えたか』
『ドラゴンの前兆か、山に起きた謎の異変』
一面を飾った二つの記事は、今日だけで三度は読んでいる。
本当はこの新聞ではなく、グラシコフ警部宛の報告書を持ってくる予定だった。だけど、あの気まずい雰囲気に動転してしまい、間違えて近くにあった新聞を鞄に詰めてしまったようだ。
気づいたときにはもう家の前。そのため、父とトーマさんには顔だけ見せて、そのまま交番へと戻ることになった。二人には一応、帰りが遅くなると伝えている。交番の用が終われば、どこかで気を紛らわす必要があると思ったからだ。
(やつらの前で恥をかきに行くようなものだからな……)
憂鬱な気分で歩いていると、近くからカラカラと馬車の音が聞こえてきた。その音に混ざって、元気な子供の声も聞こえてきた。
「パパ、ママ! ほら、おまわりさんだよ」
ダタールは傍に警察官がいるのかと思い、辺りを見渡そうとして、自分がその『おまわりさん』であることに気が付いた。
前方からやってくる馬車には、こちらをじっと見つめる少年がいた。七、八歳ほどの少年は急いで馬車を止めさせると、荷台から飛び降りて、ダタールのもとへと駆けてきた。
「おまわりのおじさん」
「は、はい……?」
「ぼく見たよ。ドラゴンが、この町にいるんだ」
ダタールはドキリとした。すると少年の後ろから、母親が苦笑しながらやってきた。
「ごめんなさい、驚かせてしまって。本物のドラゴンではなくて、この子が言っているのは今朝の新聞の話なんです。ヒノデ海岸から帰る途中で、この子が突然『森が変だ』って言い出して、『ドラゴンがいるんだ』って言って利かないんです」
「でも、ホントにそうだったよ」
そう? と真に受けていない様子で、母親が言い返した。
「見間違いでしょ、きっと。あんまりはしゃぎすぎるから、可笑しく見えただけよ」
「でも二人とも、ヘンな匂いがするって言ってたよ。それに、ヘンな音もした」
「あれは潮の香りと森の香りが混ざっていたからよ。音も、風の通り道が複雑になっていたから変に聞こえたの」
「それに、なんだかきもちわるかった」
「それは服に着いた虫に怯えて、あなたが上着を脱ぐから」
「でも、あそこだけ木もゆがんでたよ。石の道なのに、土もふにゃふにゃだった」
「それは……個性的な木ってだけよ。土は……モグラよ、きっとそう」
母親の声から、だんだんと覇気がなくなってきた。母親は不安そうに口を噤み、ダタールを見つめた。
「まさか……この子の勘違いですよね? ドラゴンがこの町にもいるなんて、そんなことないですよね?」
ダタールはどう答えていいか分からなかった。その代わり、左手に掴んだ新聞を見て、少年の証言を確かめた。
妙な匂い、妙な音、寒気を感じる妙な風……歪に曲がりくねった樹木と、足をすくわれるような柔らかな土……。
全部、ドラゴンが現れる数日前に見られた現象と同じだ。馬車から降りた父親も、恐々と尋ねた。
「けど、たとえこの子の言った通りだとしても、この異変がドラゴンと繋がっているとは限らないですよね? まだ調査中と聞きましたし……」
「わ、わかりません……」
本当にわからないのだからそう答えるしかなかった。けれど、親子もダタールも、流れた沈黙の中で確信のようなものを抱いていた。これは、ドラゴンが現れる前兆なのだ。
まさか、この町にも……?
「ちなみに、場所はどこですか?」
「海の近くです。近くと言っても、海から二十分は馬車を走らせなきゃいけませんが」
ダタールは手帳と鉛筆を取り出し、詳細を書き込んだ。
親子が異変に気付いたのは、ヒノデ海岸に繋がる唯一の道だ。そこには東サザナミ森をまっすぐ南北に分断する道が敷かれており、周りには道路の舗装当時からほとんど手を付けていない森が広がっている。
目印は、南側に並ぶ柵が波打っているところ。そこから森を覗き込むと、歪んだ木がひしめき合う奇妙な一帯があるという。ここから馬車で向かえば、約一時間ほどの場所だ。
「おまわりさん」
メモを取っていたので、ダタールは遅れて反応した。
「は、はい?」
「ドラゴンは、町には出ないよね? おまわりさんが調べてくれるから、出ないよね?」
少年の目は不安の色に染まっていた。ダタールは何も答えれず、鉛筆を掴んだ左手をそっと降ろした。
すると、だらりと垂れ下がったその手を、少年が掴んできた。手は冷たかったが、少年のその小さな手には、ダタールの胸の奥をじんと熱める何かがあった。
「ぼくも何か手伝いたい……ねえ、どうしたらいいかな?」
少しの間を置いて、ダタールは応えるように微笑んだ。そして少年の前に屈みこみ、もう一方の手で少年の手を包み込んだ。
「心配しないで。おまわりさんが調べてくるから。君はお家で待ってるんだよ。何かあったら、パパとママを守ってあげてね」
先ほどまでの憂鬱は、いつの間にか消えていた。ダタールは親子の乗った馬車を見届けて、鞄を掴んだ。
つまらないことでくよくよしていられないな。僕は、おまわりさんなんだから。
ダタールは勇ましく夕空を見上げ、颯爽と階段を上っていった。
「ダーリン!」
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