シーン21「あたしを求めるもの」
「『話』……ですか?」
「ええ。何でも昨日、話し忘れたことがあるのだとか」
部屋を出て、ダタールはリビングへ向かった。グラシコフは、暖炉の前のソファに身を沈めていた。その大きな手には、曇りなく磨かれた細長い筒が握られている。獲物を捉えたかのように物々しく光るそれに、ダタールは思わず背筋を凍らせた。
「驚いたか」
「えっ? は、はい……」
「ずっと家にいても退屈だから、部屋の隅から引っ張り出してきたんだ。安心しろ。弾は入っていない」
グラシコフは軽機関銃を構え、暖炉の炎を標的代わりに撃つ素振りをしてみせた。銃を出してきたのは、単なる暇つぶしではなく用心も兼ねてのことらしい。ドラゴンが現れた隣国ベルニアのラスラは、フタホ湾を挟んだすぐ反対側にある。この町の港から蒸気船で一日もかからない距離だから、いつこちらにドラゴンが移動しても可笑しくはなかった。
「本題に戻ろう。お前は明日から交番勤務だ」
「え……?」
「欠員が出るんだ。昨日、警部補から辞表が出された。彼は軍人経験があるから、今回のドラゴン騒動に力を貸したいらしい。他にも数名、彼について行くことが決まっている。欠員補充を要請中だが、すぐに集まるのは厳しいだろう。よって研修中のお前は、勉強も兼ねて明日から交番勤務だ。いいか?」
ダタールは頷いた。突然ではあるが、警部の命令なら仕方がない。それに、別に不満があるわけでもなかった。
「幸い、お前が配属される東サザナミ森交番は、欠員が一人出ただけだ。だが、昨日のようなことは起こさないよう努めてほしい」
「……はい」
「伝えるのが遅くなってすまなかった。話は以上だ。それから、今日からこの銃を携帯するように。念のためにな」
機関銃を手にそっと立ち去ろうとするダタールに、グラシコフは言った。
「お前なら出来ると信じている」
ダタールは暗い表情で俯いた。その言葉が本心なのかすら、最近では分からなくなってしまった。
足には黒いブーツ。その上にはカーキのパンツ。どちらも警察官の制服だ。試験に合格したから、自分は今こうして警察官の制服を着ている。
しかし、果たして自分にその素養はあったのだろうか。
「どうした?」
「本当、ですか?」
「何がだ」
「その言葉が、本心なのか……」
グラシコフは眉を歪めた。呆れたような顔をしている。
「僕は本当に、あの試験に合格したんでしょうか?」
「何かと思えばまたその話か。お前もなかなか疑り深い男だ。あれは、お前の実力で勝ち取ったものに他ならない」
「けど、イェゴリとヤコブが言ったんです。試験に合格できたのは父親が……」
「『ザラトイの警部だったから』、と言うのだろう? 何度も言うが、それはあり得ない。試験官も、私の信頼できる上司だった」
「でも、だからって……」
「いい加減にしろ、ダタール。お前は自分の力で試験に合格したんだ。イェゴリとヤコブのくだらん話を真に受けるなど……全く憐れなことだな。彼らが疑っているのは自分だ。だから他人を貶して誤魔化している。真に己を信じているのであれば、誰かを馬鹿になどしないはずだ。勿論、お前のように無意味に自分を疑うこともな」
ダタールはそれ以上何も言わなかった。ただ、グラシコフの疲れたようなため息を聞いて、静かにその場を後にした。
暗鬱な顔で部屋に戻ると、ダタールはクローゼットへ歩いてカーキの上着を羽織った。帽子を片手に掴み、鏡の前で髪を整える。
だが、その手は髪を掴んで止まってしまった。鏡と見つめ合った目も、次第にゆっくりと降ろした手元に落ちていく。
父は厳格で真面目だ。僕に嘘をつくはずがない。
だけど情け深い父だ。出来損ないの僕を庇って、裏で取引したのかもしれない。
合格を告げられたあの瞬間の、クラスメイトのどよめきが蘇る。
「あのでくのぼうが合格?」
「じゃあ俺達の努力は何だったんだ?」
「ホント不公平だよな」
父のあの苛々した口調は、一体何を意味するのだろう。単なる呆れか、それとも真実を誤魔化すための虚勢か……。
ダタールは深いため息をついた。何が本当なのか……もう何もわからなかった。
(あ、スープ……)
ドアの隙間から、スープの匂いがした。ダタールはドアを見つめながらそっとクローゼットを閉めた。
勿論、トーマさんの料理したもので、彼女のものではない。けれどその香りに、ダタールは昨晩二人きりで過ごした少女の顔を思い浮かべた。凍えた胸を内から温めるようなあの笑顔……。身体を転がる人参の欠片と、首に触れた冷たい指、押し付け合った唇……。
(あのスープ、美味しかったな……)
窓から見える空は、青く澄み渡っていた。
ダタールは優しく口端を上げて、朝食を取りに再びリビングへと向かった。
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