第二章「あたしたちの楔」

シーン20「あたしのダーリン」


「坊ちゃん、シャツはこちらに置いておきますよ」

「はい」

「朝食の用意も終わりそうなので、早めにいらしてくださいね」

「はい」

「それから坊ちゃん。帰りにどこか寄るときは必ず仰ってくださいよ。昨日みたいに食事を温め直すのも面倒ですからね」


 ドアの向こうの声がやっと消えて、ダタールはふぅ、と息をついた。

 家政婦のトーマさんは今日も朝から元気だ。対して自分はぼーっとしていて、寝間着を着替える動作も遅い。

 とはいえ、それも仕方がない。昨晩は寝付くのが遅かったのだ。考え事をしていたからというのもあるが、何よりベッドに入る数時間前まで夕寝をしていたのである。他人の家のものではあったが、あの小さなソファは意外にも心地よかった。それに、身体に重なる滑らかな肌は、暖かくて柔らかくて、気持ちも解れるようだった。


(パーシア……だったっけ)


 最初はがさつで姦しいだけの少女だと思っていた。あの近所に住む同僚のヤコブも、「近寄りたくない女。美人でもないし」とぼやいていたが、それにも少し同感だった。そそっかしいわヘンテコな敬語を使うわで、間違いなく自分の好みの女性像ではなかった。


 しかし、どうだろう。意外と可愛らしいのではないだろうか。

 彼女はお礼にと、自分にスープをご馳走してくれた。それもただのスープじゃない、自慢のスープだ。

 しかも、彼女はそれをわざわざ温めてくれたのだ。恥ずかしそうに俯き、嘆息するあの姿には、思わず心がくすぐられてしまった。

 あのときまで気づかなかった。まさか彼女が、僕のことを好きだなんて……。


(けど、鍵の場所は分かってるのに取りに行かないなんて、やっぱり変な人だよな)


 他人のことを言える立場ではない。自分だって、十分可笑しな行動をしているではないか。

 他人の家の庭に無断で侵入し、挙句一人勝手に犬に怯えている。その上、森で迷ったなんてあからさまな嘘までついている。あのとき出くわしたのが彼女だったから良かったものの、他の人なら通報されていたところだ。

 けど、あのときはああせざるを得なかったのだ。あいつらと帰路を共にすることなんて出来なかった。だから見知った人家の方へと近道したのだ。結局、あの家でくつろいでいるうちに追いつかれてしまったが……あそこで居座ることにしたのは、結果的に良かったかもしれない。


(父さんには怒られたけど……)


 あのあと家に帰ると、父にひと睨みされてしまった。すでに調査の報告書を受け取っていたようで、自分が無断で単独行動したことも父は知っていた。

 その理由に、父は呆れていた。ただ、呆れるだけで笑ったりしないのはあいつらよりずっとマシだった。ヤツらは知らないのだ。『我々の祖先は猿であり、また市場で虚ろに横たわった魚である』と解明したあの有名な生物学者フロイドル氏の提唱する精神の息吹の力を! 精神の息吹が生物にもたらす影響の多大さは週刊誌『世界のあちら側』であれほど書かれているというのに!

 いや、フロイドル氏は関係ないのだろう。ヤツらは僕の話を、僕の行動を、僕というだけで相手にしないのだ。

 頓馬、それでいて博識ぶる痛いやつ……それが、ダタールという男。

 そして、ヤツらが尊敬するグラシコフ警部の唯一の汚点、それが僕だとも。


 ――うるさい。知ってるさ、僕が恥ずかしい男だってことくらい。


 ダタールは部屋のドアを開けて、かごに入ったシャツを手に取った。部屋のクローゼットを開き、ハンガーに掛けられた制服を見ながら、黙々と着替え始める。


(所詮、僕はルキヤンの子だ……)


 血筋のせいだと思っている。グラシコフと自分がこれほどまでに違うのは。

 自分の実父であるルキヤン。彼は、とても聡明とは言えない男だった。要領が悪く馬鹿正直で、簡単な詐欺にも引っかかる、そんな愚鈍な男。グラシコフとの出会いも、窃盗の容疑が掛けられていたからという悲しい理由だ。しかも犯人の口車に乗せられ、事情も知らず犯人の肩代わりをしたというのだから情けない限りだ。 

 母親も想像以上に夫が間抜けだと知ると、すぐに彼を切り捨てた。利用するために結婚したので、二人の間に生まれた自分もあっさり捨てられた。グラシコフの家に親子揃って住むことになったのは、彼がプライドもなく泣きついたからだ。そして、二年もしないうちに彼は亡くなった。風に飛ばされた帽子を追いかけているうちに崖から転落したなんて……呆れて言葉も出ない。


(こんなのが僕の父親なのか……)


 とはいえ、警部の家のお坊ちゃまとして育てられた自分である。ルキヤンとは違う、そう思っていた。

 しかし家庭教師を雇ってもなお、高等中学の受験には失敗。初恋のメリルちゃんとの約束もそこで呆気なく破れ、淡い恋も砕け散った。

 警部の息子と聞いてはしゃいでいたメリルちゃん。僕があまりにも期待外れなので愕然としたことだろう。こんなふうに、僕はどこにいても、誰といても、父親と比べられては失望された。何をしても冴えず、その滲み出る陰気さから周囲は僕を煙たがった。


 そのくせ恋愛に対する興味は人並みにあり、しかもことごとく失敗している。温良なお嬢様アニタちゃん、清純なお嬢様マリヤちゃん、才色兼備のお嬢様ソフィアちゃん……。あの手この手で告白するも、全て僕の勘違い。結局はルキヤンと同じなのだ。僕も愚鈍で惨めな男。

 警察学校への進学を勧めたのは、他でもないグラシコフだ。こんな自分のどこに素質を見出したのかわからないが、父は「向いている」と言って自分の為に教鞭を執ってくれた。

 正直、嬉しかった。父は自分に価値を見い出してくれている。そして、自分を信じてくれている……そう思えたからだ。


 ――けれど父は本当に、僕にその力があると信じていたのだろうか。


「坊ちゃん。旦那様からお話があるようですよ」


 ドアの向こうから、トーマさんの声が聞こえてきた。ダタールは返事をして、ドアを開けた。


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