シーン19「あたしとあなた、二人きり」


「こっちに来て、スープがあるの」


 それにしても、何故こう言ってしまったのだろう……。ダタールがぱちくり目を瞬かせ、近くへとやってきてしまった。


「す……スープ、ですか?」

「え、ええ、スープよ」

「どうしてスープをいただけるのですか?」


 いつの間にか飲ませる流れになってしまった。ただ匂いを嗅がせるわけにはいかないみたいだ。


「さっきのお礼よ」

「『お礼』? けど……」

「いいの、あたしの自慢の料理なのよ。だから誰かに飲んでもらいたいの」


 昨晩眠気まなこで作ったスープがそんなわけないが、何となくそういうことにしておいた。

 パーシアはそっと俯いて、嘆息を漏らした。


(おばあちゃんと作った自慢のケーキは、誰の口にも入らなかったわね……)


「あ、で、では、ありがたくいただきます」


 パーシアは渡したスープの代わりに冷えたパンを一つ取って、ダタールを席に案内した。本当であればそのままテーブルに案内するのが妥当であったが、あえてソファに座らせた。そこなら死角になって、例の遺言も見えなくなると思ったからだ。


「……」


 二人はひんやりしたソファに腰かけて、各々の軽食を取った。なるべく離れて座ったつもりだったが、もともと小さなソファだったので両者とも近づく形となってしまった。窓から西日が差し込み、アンヌ特製の白いカーテンが眩しく輝いている。さらさらという葉の音が心地よい、実に優雅なひとときであった。

 ……気まずいのを除いては。


「あ、そうだ。さっき森にいたって聞いたけど、何してたの? お仕事?」

「あ、はい。狼の一件から一ヵ月が過ぎたので、何か変化はないかと」

「あったの?」

「いいえ、それらしいのは特に。ドラゴンも出現したから、何か関係あるのではないかと噂されていたのですが……」

「あら、あの狼、ドラゴンと関係あるの? でも前に、別の原因があるって誰かが言ってなかったかしら? 確か……あっ、月のなんたらが、って」

「『月の囁き』と『精神の息吹』。それ、僕がフロイドル氏の提唱した説を基に編み出した推測ですね。狼は月の波動による精神の息吹に影響を受けて月の位置する西に向かっていったっていう。実はフロイドル氏によると今回出現したドラゴンもこの精神の息吹の力が高まったことに関係があるようでなんでもドラゴン自体がもともと……」


 あ、失敗した、とパーシアは本能的に悟った。ダタールが目をキラキラさせて、熱く語り始めてしまっている。

 そういえばこの人、こんな人だったわね……。パーシアは急いで話題を変えた。


「そうだ、グラシコフさんは元気してるのかしら?」

「あ、はい。最近は松葉杖で歩いてます」

「二人で暮らしてるの?」

「はい、一応。家政婦のトーマさんを雇って」

「かせーふ? 家政婦なんているの? いいわねそれ」

「口うるさい人なのでそうでもないですよ。もう十八になるのに子供扱いして……」

「じゅーはち? あなた十八歳なの?」

「はい」

「まあっ、あたしと同い年だったのね」


 パーシアは改めて、同い年だというダタールを見た。


(どーしてかしら? 年下だと思ってたわ)


「なら、もっとフランクに話しましょ。あたしもそうしてたし」

「そうですね」


 ダタールは苦笑いを浮かべ、すぐに訂正した。


「あ、そ、そうするよ……」


 スープを飲み干して、ダタールはローテーブルにマグカップを置いた。眩しかった太陽が今は薄雲に隠れ、外は少し暗くなっていた。


「もう帰る?」


 ダタールは窓の外を見ていた。その目には、閑静な住宅街を歩く二人の青年が映っていた。談笑しながら歩いているのは、自分と同じカーキ色の制服を着た警察官だ。ダタールは姿を隠すように、ぐったりとソファに身を沈めた。


「いえ。もう少し、いたいです……」

「え……?」


 ダタールははにかんで、また言い直した。


「あ、もうちょっとだけ、いさせて……」


 ダタールは落ち着きなく、ちらちら外を見ていた。急に距離を縮めたかと思うと恥ずかしそうに目をそらす彼。その彼の横顔に、パーシアは胸がドキドキ高鳴るのを感じた。

 驚きで目を丸め、じっとダタールを見つめる。微かに眉を顰めたその顔は、どこか儚げだ。雲間から零れた日の光で、震える瞳が輝いている。そばかすを散らした鼻の下では唇が不安げに開き、口端に何か……見たことのある赤いものを添えている。……あ、人参だわ。人参の欠片がついている。パーシアはふふっと笑って、ソファの背にもたれた。


「まだ残ってるわよ、スープ」

「え?」

「ほら、ここについてるわ」


 指を差され、ダタールはすぐに自分の口に手を当てた。すると、指先に欠片がぶつかって、どこかへと消えていってしまった。

 ダタールは急いで欠片を探した。だが、見つかるはずがない。欠片は首と襟との間に挟まってしまったのだ。

 パーシアはそっと手を伸ばして、それを摘み取ろうとした。


「ひゃっ……!」


 ダタールの喉の奥から変な声がした。パーシアはびっくりして、さっと指を引っ込めた。指の間に欠片はない。欠片はつま先に弾かれて、コロコロ制服の上を転がり落ちていったようだ。

 しかし今、そんなことはどうでもよかった。冷たい指先に触れた彼の身体は、とても熱かった。

 パーシアは引っ込めた手で、今度は少し躊躇いがちに、ダタールの首に手を置いた。

 温かい……。コンロで熱々にしたスープよりも、何倍に心を満たすものがある。

 その手をゆっくり滑らせて、パーシアは無意識に熱を求め、襟の中に指を入れた。するとそんなパーシアの手に、まるで制止するかのような手が遠慮がちに重なった。その手は微かに震えている。だが、こちらの熱も確かめていた。そして、パーシアの手から手首へとゆっくり這わせ、冷たい手を温めた。


 再び沈黙が流れた。しかし、不思議と心地良い沈黙だ。

 パーシアは膨らんでは萎んでいくダタールの胸を見、窮屈そうな彼のボタンに指を置いた。置いたと同時にぽつっとボタンが外れていく。この先には何かがある。どうしてかそんな気がした。自分がずっと探し求めていた何かが、この先に……。


 あ、でも待って。許可がいるんじゃないかしら?

 パーシアは我に返って顔を上げた。けれど、そこに当然許可書なんてものはなかった。あるのは熱を帯びた身体と、互いを捉えて離さない目と、吸い込まれそうな唇だけ……。

 パーシアはほんのり温まった手で、撫でるように彼の頬を包み込んだ。

 ダタールも彼女の青い瞳を切なげに見つめ、そっと腰に手を回した。

 二人は奇妙な引力にその身を任せ、互いの唇に、熱く柔らかな唇を重ねた。

 それが、二人のサインになった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る