シーン18「あたしが見つけたもの」


「ただいまぁ」


 用を足し終えて、パーシアは再び土臭い住処へと帰ってきた。

 先ほどの椅子に腰かけて、ぐるりと辺りを見渡す。ここに来ることは滅多にない。この小屋はアンヌの庭道具置き場なのだ。

 背後に振り返ると、手製のプランターが置かれていた。退屈なので、パーシアは何の気なしにそれを掴み、目を瞠った。

 プランターには『ユリア』の字が書かれている。

 あ、そうだわ。十歳のときよ。二人で一緒に花を育てたんだわ。育てた花は確かルピナス。あたしの好きな花だったから。それを聞いて、ユリアもルピナスを好きになってくれた。ああ、なんて瑞々しく、素敵なおも……、


(いーえっ! ヤな思い出だわっ!)


 何よユリアっ! 顔なんて見せないでちょうだい!

 パーシアは激しく『ユリア』を睨みつけると、傍にあった火掻き棒でその文字の集合体をギリギリ引っ掻いた。記憶が正しければ、これは全部で四つあったはず。そのうちの二つは自分のだったので、これともう一つはユリアのだ。


 パーシアは前方の棚に、同じプランターが三つ並んでいるのを発見した。一つ掴んでみると『パーシア』と書いてある。もう一つもそうだ。

 ならこれが『ユリア』ね。と思っていたが、違っていた。そこにあったのは『アンヌ』だった。そうだ、あのとき、おばあちゃんも一緒に育ててくれたんだ。あたしのルピナスは二人みたいに大きくはなれなかったけど、ミツバチがよく来るから魅力的なんだ、って励ましてくれた……。

 パーシアはそっと火掻き棒を置いて、力なく震えた瞳で『アンヌ』を見た。

 そしてそれを優しく、愛おしそうに抱きしめた。


「おばあちゃん……」

「あっ」


 そのとき、後ろから変な声がした。パーシアはすぐに振り返って、影がすっと身を隠すのを見た。

 入口から顔を出してみる。右には誰もいない。左には……あ、人がいた。そこに張り付いていれば安心だと思っているのか、一人の青年が壁に身体を押し付けて立っている。

 足元には犬がいた。首輪が付いているということは迷子だろうか。別段狂暴そうでもなく、黒い目をらんらんと輝かせて、青年の周りをうろついている。それに対し、警察官の恰好をした青年は怯え切っていた。何とも奇妙な光景である。


「あ、あの、私はそのっ……け、決して怪しい者じゃありませんっ!」


 青年の台詞が、よりそれを際立たせている。

 パーシアは急に不安になって、開いていた足を閉じた。そして訝しげに顎を引いて、恐る恐る青年に尋ねた。


「あ、あなたは確か、ダタールさん、だったわね……?」

「はい。えっと、あなたは……た、ターニャさん?」

「違うわ、パーシアよっ」

「そ、そうでした。すみません……」

「あなた、ここで何してるの?」

「えっ? あ、それは……」

「いつ? いつからここにいるの?」


 ダタールは忙しなく目を泳がせた。


(ああ……そうなんだわ。この人、あたしがお花摘んでるとこ、見ちゃったんだわ)


「え、あ……さ、さっきですっ」


 ダタールは声を裏返した。


「つ、ついさっきですっ。森で迷って……な、何でもいいから、この犬をどうにかしてください!」


 パーシアは茫然とダタールを見ていた。なるほど、拍子抜けはしたが、現状はとりあえず把握できた。つまりはこうだ。迷子の迷子のお巡りさんが犬に困ってしまったところ、自分に見つかりワンワン泣き出しそうになっていると。

 例のものは見られてなさそうなので、ひとまずは安心だ。それにしてもあの森は、そんなに迷うところだったろうか……。


「あ、あのっ……!」


 悲鳴のような声にハッとして、パーシアはすぐさま犬を追い払った。

 警察にもいるだろうに、どうやらこの青年は犬が苦手らしい。犬の姿が遠くに消えるとようやく緊張を解いて、額に溜まった汗を腕で拭った。


「あ、ありがとうございます……」

「あなたわんこが苦手なの? わんこなんて怖くないわよ? 警察犬もいるじゃない」

「あ、はい……まあ、そうなのですが……」

「まあいいわ。とりあえずこれで一安心ね。あたしも理由が聞けてスッキリしたわ。あとは……あっ、そうだわ!」


 と、パーシアはあることを閃いて、ポンッと手を叩いた。


「あなたに一つお願いがあるのよ! ドアを開けてくれないかしら?」

「えっ、ど……ドア、ですか?」

「ええそう。あたし今、鍵がないの」

「あっ、紛失したのですか?」


 パーシアは慌てて言い直した。それでは大事になってしまう。


「うーんと……どこにあるのかは見当がついてるの。それより来て。こっちよこっち」


 パーシアは指で軽く手招きして、ダタールを案内した。裏口のドアは他と比べて古い。その上作りも簡素なので、きっと解錠も簡単だろう。


「ここだけでも開かないかと思っているのだけど……どうかしら?」

「え、えっと……そ、そうですね……」


 ダタールは困ったように口を引きつらせ、試しに取っ手を何度も引っ張った。


「こ、これは恐らく、内側の鍵が歪んだり曲がったりして……」


 と、何とも微妙な回答をされた瞬間だった。力強く引っ張られたドアが大きく開いたかと思うと、ダタールの額を思い切り強打した。

 ダタールは額を押さえ、驚いた顔で前方を見た。開いたドアが、蝶番だけを支えにぶらんと揺れている。恐らく施錠が甘くて、何度も振動させているうちに緩んでしまったのだろう。

 呆気ない結果ではあったが、とにかく開いたことには開いたようだ。隣でパーシアが嬉しそうに歓声を上げた。


「まあっ! 開いたわ開いたわ! ブラボーブラボー!」


 パーシアはドアへとすっ飛んで、錠を開閉しながら喜んだ。


「さすがお巡りさんだわ。何でもお助けしてくれるのね。あ、待ってて。今チップをあげるから」


 パーシアは早速家に入って、チップを取りに向かった。軽快な足取りで寝室へ向かい、ベッドに飛び乗って引き出しを開ける。そこから財布を取り出して裏口に戻ると、ダタールがドアを背にして立っていた。パーシアが開けっ放しのドアを閉めるよう合図すると、ダタールは足に絡まる落ち葉を払ってからドアを閉めた。


「おいくらぐらいがいいかしら、あなたのチップ」

「あ、結構ですよ。その、犬を追い払っていただいたので……」

「あらそう? でも、あんなの大したことじゃないわ。ドアのことは本当に困ってたのよ。だからそのお礼」

「大丈夫です。気持ちだけで。ただ、その……」


 と、ダタールは落ち着きなく周囲を見渡した。


「すみません。お手洗いをお借りしたいのですが……」


 ダタールをトイレに案内すると、パーシアは胸の辺りで腕を振って小躍りした。やっと帰ってこれた懐かしい我が家! 夕飯には早いが、怒っていたからか少し小腹が空いている。

 台所へと歩いて、パーシアは鍋の中身を確かめた。昨晩作ったスープは、ちょうど一食分残っている。パーシアはコンロに石炭をくべて、早速鍋を温めた。すると、ダタールがトイレから帰ってきた。


「あ……トイレ、ありがとうございます」


 いいのよ、というパーシアの返事を聞き、ダタールは玄関へと向かった。用も終えたし帰るのだろうと思っていたが、ダタールはふと足を止め、何かを凝視していた。

 目線を辿ると、そこには鏡があった。壁掛けの、何の変哲もない普通の鏡。

 いや、今は違う。日に焼けた木枠には、黒いニョロニョロとした字が這っている。アンヌがあの暖かかった手で書いた、最期の言葉だ。そこには『素直』なあたしに宛てたおばあちゃんの願いが込められている。


 パーシアは咄嗟にダタールを呼んだ。

 閉じかけの傷口が、また開いてしまうような気がした。


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