シーン17「あたしの憂鬱」
猫が歩いていた。
見たことのある猫だった。
見慣れた通りを歩く猫は、道の真ん中にでんと腰を下ろしてみたが、近づいてくるのを知るとすぐに身体を起こした。
人を気遣える、賢い猫だった。猫は通行の邪魔にならないよう、左へとずれた。しかし、こちらも猫を避けようと左にずれたので、両者とも通せんぼする形となってしまった。
今度は右にずれてみる。すると、猫も右にずれた。次は左だ。と思うと、猫も左に移動した。もう一度右、じゃあ左、いや右、左、右、左……、
「あああぁぁぁっ! うるさいニャあぁぁぁっ!」
びくっと身体を硬直させて、猫は素早く逃げ出した。茂みの奥へと飛び込んでいくのを、パーシアは肩を怒らせながら確かめた。
(ふん、ニャによ。あたしを怒らせるのがいけニャいんだわ)
夢中になって歩いているうちに、どうやら自宅の傍まで来ていたようだ。パーシアは再び歩を進め、不機嫌なまま家へと向かった。
数分前の出来事が、まだ尾を引いている。胸がムカムカして仕方がニャい。涙も出そうニャくらいである。それほど、せつニャくてかニャしかった。しかし、ニャみだは目から溢れることもニャければ、頬をニャがれることもニャかった。
(あたし、ニャにしてるのかしら……)
険しかったパーシアの顔は、暗鬱なものに変わっていた。パーシアは沸々と湧き上がってくる暗い感情を急いで首を振って打ち消した。
どうしてあたしを情けなく思うのよ。酷いのはユリアじゃない。ユリアはあたしを嫌ってた。他の皆もそうだった。
ベルラは……まあいつもムカついているからどうでもいいわ。でも、タチアナとリズは酷いわね。タチアナはあたしのこと初めからお友達なんて思ってなかった。リズも何なのよ。同情するふりなんかして、内心ではあたしを馬鹿にしてるのだわ。
もうっ! 何よみんな! どうしてあたしを騙すのよ! 嫌いなら嫌いで、正々堂々としていればよかったじゃない!
そうよ、わかっていたわ! 皆があたしを憐れんでいることぐらい!
あたし、そこまでおたんこなすじゃないわよ! 知ってるわ! 知ってるわよ!
――おばあちゃんがあたしを育てるの、失敗していることくらい……!
気づけば立ち止まっていた。冷たい秋風が、熱くなった身体を鋭く突き刺した。
パーシアは儚げな顔で空を見上げた。高い位置にある太陽が、白く光ってこちらを見下ろしている。薄雲が漂うだけの澄んだ青空。だがそれが、今は煩わしい。
おばあちゃんがいけなかったのかしら……。パーシアは力なく歩きながら考えた。
自分のことならまだしも、関係のない家族のことまで言われてしまうのはやはり良い気分ではない。
しかし、本当に関係ないのだろうか。自信を持って否定できない自分が、心のどこかにいる。
あたしはおばあちゃんに育てられた。おばあちゃんの躾通り、素直で元気な子に育ってきた。
だからあのときユリアに、「あたしのことが嫌いなの?」と正直に訊いたのよ。おばあちゃんでないなら死んだお母さん、もしくはお父さんの、その遺伝……。
どっちにしても、これがあたしだわ。これまで生きてきたあたしの今なのよ。お母さんの子に生まれ、おばあちゃんに大事に育てられてきた、そんなあたしの今の姿。
でも、もし……もし、あたしがあたしじゃない、あたしとは違う別のあたしだったら……皆はあたしと違うそのあたしを、あたしとして好いてくれるのかしら? そうだとしたら、あたしはあたしである必要がなくなって、あたしはあたしではないあたしに人生全てを託し、あたしを捨てたあたしになるのかしら? それは本当に、あたしと言えるの……?
そこまで考えて、パーシアはため息をついた。この手の話はやっぱり苦手だ。頭が痛くなってくる。
パーシアは玄関の取っ手を掴んだ。庭に入った記憶はないが、いつの間にかここまで来ていたようだ。パーシアはそのまま、ぐいっとドアを引っ張った。が、ドアは開かず、ぐきっと腕だけが痛んだ。
(そう……ドアも冷たいのね)
力任せに何度も引っ張った後で、パーシアはようやくハッとした。ポケットの中を慌てて探る。ない……やっぱりないっ! 鍵がないっ! あっ、あたし、工場に鞄ごと置いてきちゃったんだわ!
パーシアは急いで庭を経由して、裏口へと回った。裏口のドアは古かったが、やっぱりそれでも開かない。ドアが駄目なら窓だ。だけど、どれも鍵が閉まっていて、開くところは一つもない。どの窓も最近使ったばかりだ。今朝も寝起きに開けていた。こんな空き巣も少ない住宅街でもきっちり窓を閉めるその律義さに、パーシアは眉根を寄せて感心した。
(ここの住人、真面目だわ!)
それどころではなかった。中に入らなければ、今夜は寝るところがない。
パーシアは家の裏へと回って、窓という窓を徹底的に調べた。ここ半年は開けた覚えのない窓だが、開くのであれば何でもいい。パーシアはつま先立ちし、手を突き上げ、蜘蛛の巣をぶち破りながら、開くところがないか探した。
とそこで、パーシアはようやく鍵のかかってない窓を見つけた。早速よじ登って中へ入る。中は暗い。ついでに土臭い。間も置かずすぐに察した。ここは家じゃない。小屋だ。
パーシアはひとまず小屋の扉を開けると、澄んだ外気を浴びて、近くの椅子に腰かけた。やってらんないわ、と呟いたつもりだったが、口から出たのは声にもならない息だけだった。
「ハヘハハハァ……」
とはいえ、建物には入れたのだから今夜の寝床は確保された。
後は食糧を買うためのお財布だ。勿論それも、鞄の中にある。取りに行くとすれば就業時間後だ。そうすれば、ユリア達に会わずに済む。
風当たりのいい場所でじっとしていたので、火照った身体は一気に冷え込んだ。パーシアは太ももに太ももを押し付けて、募る尿意を抑えた。
あのときユリア達が入口を塞いでいなければ、こんなことにはならなかったのに……。忘れかけていた不満が、膀胱と共に膨らんでくる。
とりあえず、このままでは破裂してしまいそうだ。今すぐにでも解消しなければならない。パーシアはすっくと立ち上がって、ちょっとその辺までおしっこをしに赴いた。今やここは自分の土地なので、土も植物も、何が降ってこようが関係ないはずだった。
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