シーン11「あたしの失ったもの」


「あ……パーシア」

「今日の会議、随分と長かったのね。何の話だったの?」

「それは……色々よ。今後のこととか」

「そうなの……それから、何か忘れてないかしら?」

「『忘れた』……?」


 パーシアはぎょっと目を瞠った。まさか、忘れたことを忘れているなんて。


「えっ、あるじゃない。昨日ことよ。ユリア、あたしの家に来る約束だったわ。どうして来なかったの?」


 ユリアはぽかんと口を開けていた。まるで、今ようやくそのことを思い出したような顔だ。

 だがその直後のユリアの反応は、思っていたのとは違っていた。ユリアは悪びれる様子もなく、静かに自分のミシンを見つめていた。


「そうだったわね、ごめんなさい。そういえば、そんな約束もしてたわね。すっかり忘れてた……」


 パーシアは目玉がボロンと落ちてきそうなくらいに大きく瞼を広げた。な、何よそれ……。


「『忘れた』? 『忘れた』って……それだけなの? 何よそれ。あたし、ずっと待ってたのよ? おばあちゃんと二人、可笑しいなー可笑しいなー、ユリア来ないなー来ないなーってずっと待ってたのよ。あたし、ケーキだって作って……」


 と、パーシアはそこで一旦、口から溢れてきた涎をジュルッと啜って飲み込んだ。……ぷはっ、


「あたし、ケーキも作って待ってたのよ? おばあちゃん特製クリームのアリ塚ケーキ。誰も来なかったから、もう今晩食べることにしちゃったわ」

「そうだったの……ごめんなさい」

「ねえ、どうして来なかったの? 本当に、あたしとの約束忘れちゃったの?」


 ユリアは口を噤んでいた。何か、言えないことでもあるみたいだ。


「教えてくれないの? ねえどうして? 確かに、おばあちゃんと二人、眉毛を数えていた時間は悪いものじゃなかったわ。でも、ちょっと不安だったのよ? 事故にでも遭ったんじゃないかって。だけどユリア、今朝はいたじゃない。じゃあ昨日はどうしたの? 約束も忘れるくらいだったの? 教えてちょうだい、ユリア」


 ユリアは軽く目を閉じて、弱った調子で言った。


「……れたの」

「何? 聞こえないわ」

「おばあ様が倒れたの。仕方がなかったのよ」


 辺りが一瞬で、しんと静まり返った。隣にいたリズも、屋外へ向かおうとしていたタチアナも、遠くで二人の様子を見ていたベルラも他の工員達も、みんな残らず黙り込んでユリアを注視した。

 やがて、観念したようにユリアは言い出した。


「昨日、おばあ様が倒れたの。お客様と面会中、突然様態が悪くなって、気づけば床に転がり込んでいた。お医者様はすぐに読んだわ。私も急いでみんなを手伝った。そのあとのことは、ほとんど覚えてない……ただ、おばあ様はとても苦しそうだった」


 ユリアは暗鬱な顔を上げ、じっとパーシアを見つめた。


「パーシアの家に行けなかったのは、おばあ様を看病していたからよ。とても具合が悪くて、それどころではなかったの。それに私……遊びに行くなんて一言も言ってない。ただ、来客があるって話をしただけ」

「あ、あ、えっと……あたし……」


 と、声が裏返りそうになりながら、パーシアは急いで言葉を繋いだ。


「あ、あたし、知らなかったのよ。あたしが勘違いしていたことも知らなかったし、ロマーシカおばあちゃんのことも……。おばあちゃんは、今どうしているの? 具合は? どうなったの? ついこの間までは、元気にあたしの家に遊びに来ていたけど」


 ユリアはしばらく俯いていた。パーシアにはもう、一瞥もくれていない。

 長い沈黙の後で、ユリアは周囲に応えるようにようやく口を開いた。ロマーシカおばあ様、いや社長が倒れたのだ。みんな、不安に思っているはずだ。


「おばあ様は今、ベッドに安静にしているわ。あのときと比べたら、少しは症状も落ち着いてる。……けど、この先はどうなるかわからない。お医者様がはっきり仰っていたわ……」

「ユリアっ!」


 そのとき、工場長の声が聞こえてきた。工場長はドアノブを離すと、スカートの裾を揺らしてユリアのもとへと駆け寄った。

 どうやらこの話は、不安を煽ってしまうため、工員達には内緒だったようだ。工場長がユリアを叱りつけている光景が、放心するパーシアの目の前で繰り広げられている。

 そのあとのことは、パーシアも朧げにしか覚えていなかった。ただ、暗いユリアの横顔だけが、脳裏に残っていた。


 ◇


 その日の午後からユリアの姿はなかった。昼食のときもリズとタチアナしかいなく、会話も特に弾まないまま、時は静かに過ぎていった。

 仕事を終えて帰り道を歩くときも、パーシアは整然としていた。今日は小石を蹴ることもなく、無心で帰路を渡っている。

 グローニャの町は紅葉が始まり、空中でひらひらと落ち葉が舞っていた。色味のないあぜ道に鮮やかな葉が散らばって、黒く伸びた影を額縁のように囲んでいた。

 あ、今日のお仕事は終わったのね、とパーシアはここに来て改めて気が付いた。無意識のまま庭の門扉を開けて、ナナカマドの三姉妹を通り過ぎ、玄関のドアを開ける。


「ただいまー」 


 色々あって疲れたからか、頭が少しぼーっとしていた。パーシアはドアを閉めようとして、そこで、あるものに気が付いた。

 玄関の真正面から少し台所寄り。昨日ニキビに名前を付けた小さな鏡の額縁に、何か見慣れぬものがある。

 細くて黒いニョロニョロしたもの……。目を細めてみると、それは字だった。パーシアは鏡へと近づいて、更によく目を凝らした。


 『素直はあなたの宝物よ、パーシア』


「何これ」


 ついついそう口にしてしまったが、誰が書いたかは明白だ。こんなことを書く人は一人しかいない。アンヌだ。

 リビングの方を見てみると、アンヌはソファに腰掛けていた。テーブルに出した昨日のケーキを食べて眠っているのだろうか。パーシアが帰ってきても振り返りもしない。

 起こすのも悪いので、パーシアは黙っていた。だけど、どうしてこんなところに書いたのだろう。


(んもぉ。こんなのわざわざ書かなくたって、直接言ってくれたらいいのに)


 アンヌが他界したと知ったのは、それからしばらく経ってのことだった。


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