シーン4「あたしのおばあちゃん」


 ロマーシカに言われた通り、その日の夕飯はパーシア一人で用意した。

 黒パンと牛肉と、野菜をたっぷり入れたボルシチ。どの野菜も真っ赤に染まったボルシチには、勿論セルゲイから貰ったトマトを使ってある。

 家の中が料理の湯気でほんのり暖かくなると、アンヌは寝室を出て、こちらの方が楽だからとソファに腰かけた。オイルランプの優しい橙色が部屋を包む中、パーシアはふんふん独特な音楽を口ずさんで、アンヌの前に食事を出した。


「このトマトはセルゲイさんからね」

「そーよ。帰りに貰ったの。甘くて美味しかったわ。あたしお腹が空いてたからすぐにいただいたの」

「まあ」

「今日は目いっぱい走ったのよ。そりゃお腹もすくわ」

「あらあら、元気なことね」


 スープを掬い、早速ボルシチの味を確かめようとして、アンヌはぴたりと手を止めた。


「まあやだ。お仕事中に?」

「もおっ、そこまであんぽんたんじゃないわよ」


 パーシアは不機嫌に唇を尖らせた。確かにあたしは子供っぽいかもしれないが、一応これでも十八歳だ。セックスだって出来るし、もうすぐお酒と煙草も出来る。


「あたし忘れ物を取りに行ったのよ。ユリアに渡してって頼まれた紙」

「さっきロマーシカが言ってた伝言ね」

「そ。全速力で取りに行ったわ。勿論お昼休みに。あたしの俊足見せたことなかったもの。ユリアとタチアナは速いって言ってくれたけど、リズだけはよく見れなかったみたいね」


 アンヌは熱いスープを啜り、垂れた頬をそっと引き上げた。


「そう、仲良くやっているのね」


 丸テーブルに腰かけて、パーシアは、うん……、とけだるく返事をした。大きな人参を口に運び、もぐもぐ噛みながらスープを掬って遊ぶ。スプーンから皿へと、糸のようになって流れていく赤い汁。それがだんだんと、腹の立つ赤い髪に見えてきた。


「でも、ベルラは意地悪だったわ。結局あたしに嘘ついたのよ。『ユリアは急ぎの用よ』なんて言って……全然違うじゃない」

「ああ、前にパーシアが怒らせてしまった子ね」

「あれは……そうね、あたしも配慮が足りなかったわ。けど、今日のあれは意地悪よ。嘘ついてたんだから」


 アンヌはゆっくりとスープをかき混ぜた。孫のパーシアは勿論だが、そのベルラという子の気持ちもわかる気がする。話を聞く限り、彼女は世渡り上手な娘だ。パーシアに嘘をついたのも、彼女なりに面倒を避けた結果なのだろう。


「あなたの言動は少し、いい加減に見えるところがありますからね。この間の謝罪だけでは、足りないのでしょう。もう少し時間を置かなければ」


 とはいえ、幼馴染のユリアまで巻き添えにしているのはいささか心配だ。

 そんなふうにアンヌが思っていると、パーシアがテーブルに寝そべって、呟くような声で言った。


「ねえ、おばあちゃん……素直って、いいことなの?」


 行儀悪く突っ伏したまま、パーシアはまたスープを掬って、さっきのように皿へと流した。

 アンヌはそっとローテーブルに皿を置いて、静かに言い出した。


「パーシア……嘘つきっていいこと?」

「ううん。だからしないわ。ベルラになっちゃうもの」

「素直でないということは、嘘をついているということよ。他の誰でもない、自分に嘘をついているの。考えてごらんなさい。それは本当に、あなたが望んでいること?」


 すぐさま首を振ってやりたかったが、パーシアは出来なかった。確かにアンヌの言うとおり、自分に嘘をつくのは自分の望みではないかもしれない。だが、少なくとも今は正しいことのように思えてしまう。

 ベルラの嘘もそうだ。誰も変に思わない。そういえばユリアも、ベルラの嘘を指摘しなかった。それとも単に、気づかなかっただけだろうか。

 日が落ちたせいか、妙な気分だった。みんながあたしに隠し事をしている……そう思えてならなかった。

 みんなとは楽しくお喋りできている。けれど、どことなく距離を感じる。もどかしい感覚だ。どうしてなんだろう。あたしは正直にみんなと接しているのに、みんなはそうじゃない。


「素直というのは時に、人から疎まれることもあるでしょう。けど、だからといって軽んじていいとは思えません」

「どうして?」

「自分の心を動かす為になくてはならないからよ。それは、幸せの鍵なの」

「幸せの、鍵……?」

「私は長い人生の中で、素直になれなかったばかりに辛い思いをしてきた人を何人も見てきたわ。あなたの知るロマーシカもその一人。仲違いをした弟に、結局謝罪の言葉は届かなかった。それに……サニアもそう」


 パーシアは久々に聞く名前に、黙って顔を俯けた。顔も知らない母親の話は、もう何度も聞かされている。

 アンヌの一人娘――サニア。勝ち気で意地っ張りな彼女は、ここグローニャのような地方の町を退屈に思い、妙齢になると首都ザラトイへと出向いた。しかし、そこで出会った将校との間に子をもうけ、あっさり捨てられて帰ってきた。

 戻ってきたのは二十三歳。パーシアもまだ生まれたばかりだった。その頃サニアには気になる男性がいた。相手は幼馴染の男性で、覇気がなく地味。畑仕事が生きがいののんびりした青年で、意地っ張りのサニアはなかなか恋心を認められず、そのうちに青年は遠くの開拓地へと移住することになってしまった。彼が船で町を発つ直前、夜の港を駆けたサニアは、そこで足を躓かせ海に転落。彼女の遺体が見つかったのは、彼の乗った船が発った、数時間後だったという。


「あの子にだって素直な心はあったわ。でも、ずっと奥に仕舞い込んで、なかなか取り出すことは出来なかったの。そう考えたら、あなたはずっと、幸せに近いところにいる」

「あたしが……?」

「ええ。あなたはその鍵を、今でもしっかりその手に掴んでいますから。あなたが思う以上に、あなたのその素直さはずっと価値のあるものですよ」


 パーシアの身体がじんと熱くなった。料理の湯気もあるかもしれないが、これは、アンヌの暖かな言葉のせいだろう。


「あなただけが持つその鍵が良いものかどうかなんて、気に病む必要はありませんよ、パーシア。それによってあなたを遠ざける人もいるかもしれないけど、一番悲しいことは、あなた自身がそれを手放してしまうこと」

「おばあちゃん……」

「ただ、相手の気持ちは考えなければなりませんよ。あなたの素直な気持ちと、誰かの素直な気持ちは対等でなくては。折角素晴らしいものを持っているのですから、それを踏みにじるのは勿体ないでしょ?」


 そう言うと、アンヌは改まってパーシアを見つめた。


「約束して、パーシア。これからもずっと、自分の気持ちを忘れない、素直なあなたでいること。大丈夫。あなたを愛してくれる人は必ずいる。だから、恐れないで」


 パーシアは短い眉を顰めて、泣きたいのか笑いたいのか、複雑な顔をした。

 おばあちゃんはあたしの気持ちをわかってくれている。あたしのことを想って、愛してくれている。そして何より、あたしを誇らしく思ってくれている……。


 突然、パーシアが思い立ったように席を立った。黒パンの上に牛肉、またその上に牛肉を置いて、左手にその皿、右手にボルシチを掴んで、アンヌの元へと向かっていく。


「おばあちゃん」


 と、ローテーブルに皿を置くなり、パーシアは抱き着いた。


「大好きっ!」

「あらあら」


 首に絡みつくパーシアの腕を、アンヌはトントンと叩いた。


「食事の邪魔ですよ、パーシア。ほら、あなたも食べなさい」


 離れてほしい、という意味だったのだろうが、パーシアは構わず片腕だけ解いて牛肉を摘まんだ。それを口に放り込み、べたべたの指を舐めて、パーシアは再び力強くアンヌにしがみついた。


「はべはわよー!(食べたわよー!)」


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