シーン3「あたしのおうち」


 リズとタチアナと大通りで別れ、パーシアは一人、帰路についていた。

 季節はちょうど秋の初め。目の前に広がった南イリヒ森が、深緑から黄緑色へとすっかり色を変えている。大きな下り坂の頂上から見える住宅街も、森の影響を受けて、鮮やかな雰囲気を纏っていた。まだ道の舗装もされていない質素な住宅街。そこに、パーシアの家はひっそりと建っている。


(ベルラったら意地悪よね。教えてくれたっていいのに)


 大通りで捕まえた小石を蹴りながら、パーシアは不機嫌に坂道を下った。


(何よ。こんなだったらあたしも見ちゃえばよかったわ。二人だけの秘密にしちゃって、ずるいじゃない)


 そのとき、どこからともなくトマトが降ってきた。パーシアは降ってきたトマトを二つ、慌てて両手で受け止めた。

 通り過ぎた一台の荷馬車が、坂道を下って、どうどうっ、と馬を停める。御者席から顔を突き出して、五十代ほどの男が目を瞠った。


「ああっ、ごめんよパーシアちゃん」

「セルゲイおじちゃん!」


 パーシアはトマトを掴んで、男のもとへと走っていった。哀れな小石は靴に弾かれ、茂みへと飛んでいった。セルゲイおじちゃんは家のはす向かいに住む猟師だ。パーシアが赤ん坊のときから、祖父母と共に世話になっている。


「やっぱり帽子には入りきらないよな……」

「このトマト、おじちゃんのお兄さんのところのね」

「ああ。季節外れのトマトってことで処分を任されたんだ。少し熟れているけど、パーシアちゃんもどうだ?」

「あらいいの? じゃあいただくわ。このまま食べても大丈夫そうかしら?」

「ああ。私もさっき食べたからね」


 パーシアは袖でトマトを拭き、キラキラした目でそれを見つめてから、ガブリと思い切り齧りついた。セルゲイが話した通り、トマトは少し熟れている。くにゃりと柔らかくて、噛むたびに薄い血のような汁が口の端から溢れてきた。


「よっぽど腹が減っていたと見える」

「へえ、ほお(ええ、そう)」

「どうだ? 噛み応えがなくて物足りないだろう」


 パーシアは一気にトマトを呑み込み、唇をウッと突き出して湿ったヘタを摘み取った。そしてトマトの皮が張り付いた歯で、ニッと笑って見せた。


「大丈夫っ! 甘くて美味しかったわ」

「なら良かった。明日兄にも伝えておくよ。仕事で疲れただろうに、パーシアちゃんは元気いっぱいだね。アンヌさんも安心してるよ。明るいパーシアちゃんにいつも励まされているみたいだからね」


 おまけだ、と袋代わりの帽子からトマトを一つ取り出して、セルゲイはそれをパーシアに差し出した。短く挨拶をして去っていくセルゲイに、パーシアはもらったトマトを天に突き上げながら叫んだ。


「ありがとー!」


 坂を下って少し走れば、パーシアの家はすぐそこだ。木櫛のように尖った柵が並んでいるところ。そこがパーシアとアンヌ、二人の家になる。


 パーシアは低い門扉を膝で押し開けて小さな庭に入った。庭の中には、細かな赤い実をつけたナナカマドが三つ、仲良し姉妹のようにくっ付き合って植わっている。

 その向こうには木造の家が建っていて、茶色く縁取られた窓から白いカーテンが覗いていた。勿論、アンヌの縫ったものである。白樺の木で出来たガーデンテーブル。そこに敷かれたテーブルクロスもそう。花模様のテーブルクロスには、ティーカップが二つ、中に落ち葉を浮かべて置かれていたが、パーシアは特に気にする様子もなくまっすぐ玄関に向かってドアを開けた。トマトを掴んだままだったので、取っ手を掴んだときに中から汁が零れてしまった。


「おばあちゃーん。トマトぉ」


 パーシアはドアを閉め、カーテンやリースで飾り付けられた台所へと向かった。しかし、そこにいると思っていたアンヌの姿は見当たらない。


「おばあちゃん?」 


 トマトを置いて、アンヌの姿を探す。すると、帰ってきたみたい、という声が寝室の方から聞こえてきた。中から足音がして、すらりとした老婆がパーシアの前に現れた。白髪の中に僅かに亜麻色を残した髪……。


「ロマーシカおばあちゃんっ! 遊びに来てたの?」


 ええ、と老婆は頷いた。その思慮深そうな茶色の瞳も、ユリアのものとそっくりだ。


「午後の診察が早めに終わったから、アンヌの様子を見に来たのですよ。お昼はありがとう。ユリアに渡してくれた?」

「ええ。あそうだ、あれって何の用だったの?」

「ああ、ステッチの一部が変更になったって話ですよ。別に急ぎの用ではないのだけど、あの子、気にしていたみたいだから」


 そう言ってロマーシカは寝室の方へと引き返した。ぼうっとしていたパーシアも、ハッとして後を追っていく。祖母のアンヌはベッドに横たわっていた。おかえり、という彼女に代わって、ロマーシカが説明した。


「さっきまで外でお茶をしていたのだけど、急に様態が悪くなって寝かせていたの」

「えーっ、おばあちゃん、この間もなったのに?」


 あからさまに困った顔をするパーシアに、アンヌは思わず苦笑した。雲のようにふわりとしていた髪は、今は形が崩れてしまっている。


「少し不注意が過ぎたみたいね……けど、仕方がありませんよ。それほど年を重ねたという証拠なんでしょう」

「私もアンヌもこんな年ですもの。あとは自然に身を任せるだけだわ。……さて」


 と、ロマーシカは窓縁に手を置いて外を見やった。空はまだ金色だが、帰る頃には暗くなっているだろう。


「私はもうお暇しましょうか。パーシアも来たし、アンヌも安心でしょう」

「そうね。今日はありがとう、ロマーシカ。あなたが来てくれてとても助かりました」

「あまり会う機会もないですから、ここぞとばかりに協力させていただきましたよ。お互い同じ病気で何よりだわ」

「あら、不謹慎じゃないかしら?」

「やだこの人ったら。『お揃いの病気になったのも、お互いを助け合うように運命づけられているからよ』って、そう言ったのはアンヌじゃない」


 確かにそうだった、とアンヌは笑った。ロマーシカもそれにつられて笑い、アンヌの手を取って別れを告げた。

 最後にパーシアのもとへ行くと、汚れた彼女の手を掴んだ。ロマーシカの手はアンヌと同じ。骨ばって、しわだらけで、とても暖かい。


「今晩の食事はあなたが作ってさしあげなさい、パーシア。アンヌも落ち着いては来ているけれど、あまり無理は出来ないわ」

「んもおっ、わかってるわよ」


 怒ったように眉根を寄せるパーシアに、ロマーシカはつい、安堵の笑みを浮かべた。


「そうね、そうだった。あなたのそういうところに、アンヌは救われているのだったわね」


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