第6話 婚約は解消した方が
「あの子……」
誰かが小さく囁いたのが聞こえる。「あの髪の色、確か聖女様候補じゃなかった?」
「聖女様候補って……確か、神官長様のお気に入りっていう」
「聖魔力が歴代聖女様たちよりもずっと上だって噂の」
詮索好きな少女たちといった様子の囁き声と、この場の空気を乱したことに対しての不満が入り混じり、講堂の中は僅かに居心地悪い空気が流れる。しかし、噂の当人である少女は壇上にいたアルフレート殿下の姿を見て口をぽかんと開けていて、何も気づいていないようだった。
そして、アルフレート殿下もまた――少女を見て小さく笑っていた。苦笑交じりというのが正しいのだろうが、それでも、挨拶を終えてからだったせいか遅刻してきた少女に微笑みかける余裕はあったようだった。
その代わり、咎めるような表情の講師たちが慌てて少女を誘導し、皆から向けられる視線から守ろうとしていた。少女も気まずげに頭を掻きながらそれに従ったが、彼女の視線はちらちらと殿下に向けられ、じわじわとその頬が薄紅色に染まっていくのが明らかだった。
――これが恋が芽生える瞬間というものなのだろうか。
僕は他人事のようにそう考えながら少女から目をそらし、じっと自分の考えの中に沈んだ。
本当ならば、僕は彼女に敵意を抱く立場なのだろう。形だけとはいえ、僕は殿下の婚約者なのだから。
でも、本当にどうでもよかった。
入学式が終わり、新入生たちはそれぞれ慌ただしい時間を過ごす。明日から始まる授業を控え、それぞれが指定された教室で担任の講師から説明を聞く。宿舎で生活する生徒たちは、自分にあてがわれた部屋を確認し、家から持ってきた荷物を整理する。
そして僕はといえば、自宅に戻る前にアルフレート殿下に話しかける機会を狙って中庭に立ち尽くしていた。他の生徒たちは皆忙しそうに歩いていて、一人だけぼんやりとしている僕に視線を投げることはあっても声をかけてくることはない。
広い中庭は天にも届くかと思われる大木があり、青々とした葉を茂らせている。
僕はそのごつごつした幹に手を伸ばし、微量に感じる魔力の流れを確認しながら辺りを見回していると――。
ざわり、と空気が動いた。
――あ。
僕は思わず声を上げそうになって、そっと唇を噛んだ。
校舎から出てきた殿下と、その周りを取り囲むようにして歩く人たちの『群れ』に驚いたからだ。もちろん、僕と同じような反応の生徒たちも多い。美しさの化身とも呼べるアルフレート殿下と、同じ年頃の少年たち、明らかに学生ではなく殿下の護衛と一目で解る男性たち。ただ誰もが魔力量が強いようで、歩いているだけで空気が揺らぐ。
そしてその人影の中に、見覚えのある姿を発見する。
ミハル・リンドルース、僕の弟だ。彼もまた、新入生としてこの学校に入ってきている。真新しい制服に身を包んだ彼は、ぎこちないながらも背筋を伸ばして殿下の傍に控えている。
そして少しだけ殿下より離れた場所に、ガブリエル・ベンディック。こちらは眉根を寄せて情けない表情をしていて、この国の頂点に立つべき存在に腰が引けているのが解る。
それ以外にも見たことのない少年たちがいるが、おそらく彼らは全員、将来的に殿下の側近となるべく一緒にいるのだろう。
しかし……困ったな、と思った。
話しかけにくい。
僕は小さくため息をこぼし、木の幹に自分の額を押し付けて目を閉じた。
こんなに大勢の人間がいる中で殿下に話しかけ、自分の望みを伝えるのはあまりにも――。
「エヴェリーナ・リンドルース嬢?」
僕が大木に身を預けて肩を落としていると、静かな声がかけられて目を見開いた。恐る恐るその声の方に目をやると、アルフレート殿下が護衛と未来の側近候補たちを連れて僕の傍に立っていた。
ぎょっとしたものの、必死に平静を装って居住まいを正し、彼に頭を下げた。
「お会いできて光栄です、王太子殿下」
「それはこっちの台詞だよ、我が婚約者殿。君が私の婚約者……だよね? 間違いはないはずだが……」
婚約者? と辺りが騒めく。
僕の背中に冷や汗が流れるのを感じつつ、こちらを遠巻きにして見守っている生徒たちの存在を知る。
僕はそっと頭を上げ、目の前にいる殿下の人形めいた微笑を受け止めた。こちらは笑みを返す余裕なんてない。
「君に手紙は送っていたけれど、実際に会うのはこれが初めてだね」
殿下が少しだけ困ったような声音で言った。「正直、色々と疑問があるのだが……まず、どうして男子の制服を着ているのか教えて欲しい」
「ええと、それは」
思わず僕の視線が宙を彷徨う。
「君の父君からは、君が病弱だから領地で静養していると聞いていた。だから王都キリアンにはずっと不在なのだと」
――病弱。そういうことになっていたのか。
僕の視線はやはり定まらない。何て応えたらいいのか解らない。
「今の君の状態を見るに、とても病弱とは思えない。顔色もいいし、歩き方も身体を鍛えた人間のそれだ。君はこの学校で剣術を習おうとしている?」
そこで、アルフレート殿下の視線が僕の右手首に向かったのを感じて、そこにある魔道具を見つめる。
「……ええ、はい。何と言うか……その」
「姉上」
そこに、躊躇いがちなミハルの声が響く。優し気な顔立ちだから、心配そうな表情が余計に彼をひ弱そうな印象を与えていた。彼の右手首にも僕と同じ魔道具がつけられているから、ミハルも剣術を習う予定なのは間違いないだろう。
「父から姉上に預かってきた制服があります。そちらに着替えていただくことは……」
「無理だね」
僕は彼の願いをあっさり切り捨てた。
が。
アルフレート殿下もにこやかに口を挟んできた。
「私からもお願いしたいね。君は女の子の姿の方がいいと思うよ」
「いえ、それは」
僕が必死に断ろうとしていると、視界の隅に入ってきた者がある。
ガブリエルだ。
彼は少し離れた場所でしゃがみこんで、頭を抱え込んでいた。
「……何をしてるんだ」
僕は思わず、図体が大きいのに小さく屈みこんでいる彼の背中に声をかけてしまう。ガブリエルはびくりと肩を震わせた後、まるで地の底を這うような声で返してくる。
「ほっとけよ」
「どうして?」
「いいから」
「何でしゃがみ込んで……」
「落ち込んでんの! 察しろよ!」
何を察しろというんだ。
僕が眉根を寄せていると、殿下が不思議そうに首を傾げて見せた。
「……君たちは知り合い?」
「え、ああ、はい」
僕は思わず我に返って頷く。すると、殿下がガブリエルに一歩近づいて短く言った。
「後で説明を」
「……へい」
「おい」
ガブリエルの雑な返事に苛立ったのか、殿下の背後に山のようにそびえ立っていた三十代くらいの男性が威圧感を放ってきた。しかしガブリエルはそれを気にした様子もなく、のろのろと立ち上がって深い深いため息をこぼす。疲れ切ったようなその表情をじっと見つめていた殿下は、妙に鋭い視線を僕に投げてきた。そして何か言おうと口を開きかけた時だった。
「何で、悪役令嬢が男装してるの?」
中庭に響いた声に、皆の視線がそちらに向いた。
薄紅色の髪の毛の持ち主、母が言う『ゲームのヒロイン』が茫然としながらそこに立っていた。小柄で庇護欲を掻き立てるような可憐な少女。
しかし途方に暮れたように僕を見つめる彼女は、少しだけその場で怪しい動きを見せた後、くるりと踵を返して走って行ってしまう。
一体、何なんだ。
僕も殿下も、ガブリエルもミハルも護衛たちも、奇妙な目で彼女の背中を見送ったと思う。
でもすぐに僕は我に返り、色々と邪魔はあったものの、最初の目的を思い出して気を取り直した。
僕はどうしても、殿下に言いたかったことがあった。だから声をかける機会を窺っていたのだ。
「あの、殿下。お願いがあるのですが」
「何?」
アルフレート殿下は、すぐに穏やかな笑顔をこちらに向けた。
「僕たちの婚約は解消した方がいいと思うのです」
「え」
「えっ」
「おお?」
殿下だけではなく、他の人間からも驚きの声が上がる。とにかくそんな反応は気にしている暇はない。
「見ての通り、僕はまともに女性らしい育ち方をしておりません。中身はほぼ男性に近いと考えています。こんな僕が殿下の婚約者なんて、荷が重すぎます」
そこで、何故ガブリエルは頷いているんだろう。
殿下の背後で腕を組み、どこか安堵したように微笑む彼の横で、ミハルが困ったように首を横に振っていた。
そして当の殿下はと言えば。
「そう簡単に解消などできるはずがない。それに、今からでも遅くはないはずだよ」
「何がですか?」
「君の淑女教育。王子妃になるための勉強なら、まだ間に合う」
――そうだろうか。
いや、する気はないけれど。
ミハルが安堵したように頷く姿と、ガブリエルが鼻の上に皺を寄せて不満げにしている姿を見ながら、僕はどうしたらこのゲームの舞台とやらから降りることができるのかと考えこんでいた。
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