第3話 母は変人だけど

 しかし、人間というのは慣れる生き物なのだ。女の子らしいことから遠ざけられて生活してきたから、今更服装などどうでもよくなってきているし、簡単にこの状況も受け入れることができる。

「で、これがその制服?」

 僕は受け取った制服を見下ろしながら、そっと目を細めた。青いブレザーとズボン、ベストにネクタイ。魔術学校の校章なのだろう、白い刺繍糸で翼を持つ馬と魔術言語で書かれた学校名。


 ――バルターク魔術学校。


 それが僕が通うことになる学校の名前。そして、母が言うところの『ゲームの舞台』なのだというが……。


「……宿舎があるんですよね?」

 僕が視線を母に向けてそう問いかけると、彼女は意味深に白い指を自分の唇の前に当てて微笑んだ。

「そうね。ゲームではあなたもヒロインも、あなたの婚約者のアルフレート王子殿下も、全員宿舎に入る予定なんだけど。で・も! わたしはそうはさせないの! ゲーム通りにしないで、学校の近くに家を借りてあるから、あなたはそこから通うのよ? それで、できるだけ王子殿下とヒロインとの接触を減らすの!」

 きらきらと輝く彼女の瞳は、どこかいたずらっぽい光も帯びている。とても楽しそうなのだけれど、疑問が一つだけある。

「……王都キリアンには、リンドルースの屋敷がありますが」

「ああ、あの屋敷は駄目駄目!」

 母は唇を尖らせて続けた。「あの馬鹿が愛人を連れ込んでる屋敷になんか、帰るわけないし。わたしたちは屋敷を追い出された本妻とその息子という立ち位置で頑張るのよ!」


 ……息子。

 やっぱり完全に息子扱い。まあ、気にしないけれど。


 というか。


「母上も一緒に行く予定なのですか? ここを離れて王都へ?」

「あったり前よ、前の前の朝飯前よ!」


 ……母は時々、変な言葉を使う。気にしたら負けだ、多分。

 僕は眉を顰めながら曖昧に頷いた。


 ――そしてそれから五日後のこと。

「お久しぶりね?」

 母が胸を張ってそう言った時、目の前に立っていたのは長いこと会っていなかった父である。

 僕と母は、馬車に乗って王都キリアンに向かい、こうしてリンドルース家に乗り込んできたというわけだった。


 リンドルース公爵家は王都の北部に大きな屋敷を構えており、我が国――フリードル国の貴族の中でも一二を争う権力を持っていると言っていいだろう。王都から離れた場所に広大な領地を持っていて、その地にある鉱山から良質な鉄鉱石や石炭、原油、さらに魔道具の材料となる魔鉱石という重要な資源を採取していた。そのため、その土地は王都と並んで大きく発展しており、財力という点ではリンドルース家の右に出るものはいないだろう。


 母が父と結婚した頃、多忙であった父は王都と領地を行き来しており、リンドルース家にいるのは一年の半分もなかった。

 しかし、領地で出会った女性と恋仲になり、母という存在がいながら僕と同い年の子供をそこで産ませたのだ。

 それが――。

「……お久しぶりです、姉上」

 それが今、父の背後に立って頭を下げている。

 父と同じ濃褐色の髪の毛と、金色に近い淡い茶色の瞳。痩身痩躯の優男という表現がよく似合う、父によく似た整った顔立ちの少年。

 彼――ミハル・リンドルース、母親違いの僕の弟。

 彼が正式にリンドルース家の人間となったのは、五年ほど前のことだ。この屋敷に彼がやってきた直後、母は僕を連れてコンラスにある別荘へと『家出』した。それからずっと会っていないから、お互い姉弟として過ごした時間はない。顔を見ただけで終わった。


「姉上、なのですよね……?」

 顔を上げたミハルの表情には明らかに困惑があった。

 そしてその脇に立つ父の表情も似たようなものだ。

「噂には聞いていたが……お前、どんな育て方をしたのだ」

 リンドルース公爵は柔和な顔を歪め、明らかに母を咎めるような口調で続けた。「エヴェリーナは王子殿下の婚約者として育てよと――」

「あら、お断りしましたわぁ」

 母は両手を胸元でパン、と叩いて明るく父の台詞を遮った。「だって、エヴェリーナ……いえ、エヴァンは『こう』なんですもの。王子妃になんてなれるはずがないって何度も言いましたわ!」

「しかし婚約は王命だぞ? 全く、陛下になんと言って詫びろと言うのだ。こんな男にしか見えない娘など、恥ずかしくて人前には出せん」

 まあ、男装している自分はどこからどう見ても立派な少年だ。

 ミハルより小柄ではあるけれど、歩き方や立ち振る舞いはとても女らしいとは言い難い。

 そして、母はどこか自慢げに言うのだ。

「だから婚約など解消すればよろしいかと」

「そんな簡単な話ではなかろう!」


 それは恫喝に近かった。

 リンドルースの広い玄関ホールに響き渡った声は、近くにあったガラス窓をびりびりと震わせている。どうやら父の魔力も漏れ出しているらしく、僕の背中の産毛が逆立った気がした。


「……あらぁ」

 でも母は全く動じておらず、明るい笑顔のままその視線を玄関ホールの奥、二階に続く階段の上に向けた。「あまり大きな声を出すと、奥様が怖がってしまうわね?」


 その途端、父とミハルが身体を震わせ、すぐに背後に目をやった。そう、階段の上に立っている栗色の髪の毛を持った、童顔で小柄な女性へと。

 彼女は落ち着いた緑色のドレスに身を包み、髪の毛もきっちりと後頭部でまとめていた。派手な僕の母の顔立ちとは違って、何とも慎ましやかさが際立つ、聡明そうな女性だった。

 だが、彼女の瞳には苦し気な色が浮かんでいたし、僕の母の姿を見て今にも泣きそうになっていた。

 顔色を変えてその女性の元に駆け寄ろうとした父の背中に、母は追い打ちをかけるように言った。

「わたしたちはお邪魔のようだから、別の屋敷で暮らすわね? これは決定事項だから。お互いの心の安寧のために、あなたはわたしたちを放っておいてくださるわよね?」


 そして、それを聞いた父はこちらを振り返ることなく返してきた。

「好きにしろ」


 そんな茶番劇を繰り広げた後、僕と母は玄関ホールから踵を返したわけである。リンドルース家の客間にも通されることなく、まるで招かざる客だと言外に告げられたような気分だった。

 気まずそうな使用人の表情と共に玄関の扉を閉められた時、その隙間からミハルの罪悪感に満ちた瞳がこちらを見ていたのも気づいたけれど。


「関係ないない、後は好き勝手にしましょ」

 母は馬車のところに戻りながら、にやりと笑って見せた。


 そこにいた御者は僕らがコンラスの屋敷でも雇っていた年配の男性で、落ち着かないように馬車の周りを歩いていた。

 でも、母に気づくとすぐに表情を和らげ、色々察してくれたようだ。

 彼は怒りを滲ませた目でリンドルース公爵家を見上げ、小さくため息をついた後に穏やかに言った。

「皆、先に新しいお屋敷に向かっております。陽が暮れる前に移動しましょう」

 皆、というのはコンラスの別荘で働いていた使用人たちだ。王都に戻るから一緒に来て働いてくれる人間は? と訊いたらほとんどの人がついてきてくれた。誰もが信用できる人たちだし、本当にありがたい。

「そうね」

 母は上機嫌さを示す軽い足取りで馬車の中に乗り込み、扉を閉めた後で僕にだけ言ったのだ。


「皆に、ここに来るまでの道がてら噂を流すように言っておいたのよね。わたしたちがリンドルース家で虐げられている悲劇の母子だってね。あの馬鹿の評判を地に落としてやるわ」

 うふふふふ、と笑う母の唇はとても綺麗だった。まあ、逆にそれが怖かったけれど。

 敵には回したくない人だな、と他人事のように考えながら、僕は馬車の窓の外を見た。


 ――やはり、王都は色々な人がいる。


 少し馬車を走らせただけで、コンラスとは違う賑やかさが伝わってくる。そろそろ夕方という時間帯もあってだろうか、多くの食事処から呼び込みの声が上がっているし、行きかう人々の足取りもゆっくりだ。旅人や商人らしい姿も多いし、武器を持った冒険者も数えきれない。

 学校に通い始めるまであと少しだ。それまでに王都にあるギルドも様子を見ておきたい、と考えていると母が僕の思考を遮る。

「でもまあ、我ながら上手くやれたと思うわ。本当はあの浮気相手の彼女、ゲームだと病気で死んでるはずなのよ」

「死んでる?」

 僕が顔を顰めていると、彼女が「そ」と頷いた。

「馬鹿が王都にいる時に病気になってね、薬を買うお金がなくて死んじゃうの。で、息子のミハルは『お母さんが死んだのは、父を王都に引き留めていた奴らだ』とか考えて、わたしたちを憎んでいる……っていう設定だったはずよ?」

「何で僕らのせいなんですか」

「まあ、その辺は詳しく解らないけど。多分、ゲームだとわたしは悪妻のはずだから、色々やってたんじゃない? もしかしたら、病気じゃなくて毒かなんかで殺したのかも? 知らないけど」


 あっけらかんと言った母を、僕は呆れたように見つめる。

 母はまた「うふふ」と無邪気に笑った後、一転して悪い笑顔を作った。

「だからわたし、彼女が絶対に死なないように仕組んだの。見張りをつけて病気になりそうだったら医者を接触させたし、危険なことに巻き込まれないようにギルドから護衛を雇ったし。さらに、あの馬鹿が彼女を屋敷に連れこむように仕向けたし。わたし、頑張った!」

 そこで母は馬車の中で両腕を広げて上を見る。馬車の天井しか目に見えないだろうに、彼女は何か別の物が見えているかのように続けた。

「ゲームの神様がいるなら、見ていてちょうだい! 絶対に絶対に絶対にわたしたちが勝つんだから! ヒロインなんかくそくらえ! わたしは自分の大切なエヴァンを守ってやるんだからね!」

「……うん」

 僕はつい、もぞもぞと身体を動かして心の中に芽生えたこそばゆい感情を誤魔化した。母の言葉はまっすぐで、いつだって躊躇いがない。それがとても嬉しいと感じる。大切にされていると実感できるからだ。

 僕も母のことが大切だ。母は変人だけど、愛すべき人でもある。僕が守るのは母だけでいい、なんてことをを考えながらもう一度窓の外に目をやると――。


 大通りの片隅で、黒い何かが蠢くのが見えた気がした。

 地面の上に揺らめく黒い炎。

 そう思ったのだけれど、すぐにそれは消えた。見間違いかとも思ったけれど、それから僕は何度か同じものを見ることになる。

 しかもそれは学校の中で。

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