無力ということ

今日、区役所にいって手帳申請してきた。

通るのかはわからんが、ここまでトントン拍子にいったので拍子抜け感はある。あと血液検査もした。血を取られるのは恐怖だったが、思っていたよりも痛くなかった。

明日、というか今日は障害者専門の転職エージェントに転職のことを相談する予定だ。




これで4人家族中3人が手帳持ちとなるんだが、私は誰にも手帳取得のことはいうつもりはない。聴覚障害者の母親は障害者であることにコンプレックスを持っていて、補聴器をつけていたとしても障害者手帳取得レベルでない私のことを誇りに思っていたと思う。毎週受ける聴力検査で一度だけ、高い音が健常者レベルになったことがあったのだが、そのときの母の顔は過去一嬉しそうだった。自分がどんなにいい大学に受かろうが、いい会社に入ろうが、どうでもよくて。母の価値基準はつねに聞こえるか、聞こえないかにあると感じた。


またも話が逸れたが、そんな母の下に育ったからか、家で耳の話をするのは個人的に億劫だった。ひいては相談もできない。だから、自分の相談相手は家族以外の誰かになるのだけれど、そもそも聴覚障害なんて稀だから、相談に乗れるような人はいない。世の中にはコミュニケーション力にかんする本がいっぱい売られているけど、どれひとつとして聴覚障害向けのものはなかった。友達との会話が聞きづらいのが辛くて、中学のとき、図書館でふと並んでいたコミュニケーションの本を手に取って1ページをまくったとき、「この本を読めば誰だってコミュニケーションは取れるのです。あなたが聴覚障害者でもないかぎり」みたいなことが書いてあってすこしショックをうけたのを、いまだに覚えている。


ただ、そういったことを理不尽だと叫んでも、だれも解決してくれない。そもそも解決する術を持っていないのだ。災害にたいして人類が太刀打ちできないように、聴覚障害のことはどうにもできない事柄なのだ。福祉的なものだから理不尽を唱えられるけど、本質的には事故で亡くなった親を返せと加害者にすがるようなものだと思う。仕事でミスをしたり、ゲームで負けたりしたときは無力だといつも思うけど。ほんとうの無力というのは、どうにもならない出来事に直面したときに感じるものだと思う。それは障害関係なく、だれにでも発生しうるものなのだ。


そして自分は天災のような理不尽な出生を、どうにもならないものだと割り切って、いままで生きてきた。これからも、そうする予定だ。手帳取得のことを言ったって、親は親身になってくれないし、会社の人はいい職場を提供できる訳でもない。誰にもどうにもできなくて、マイナスの話題なのだから、言う必要もない。


ただまぁ、誰にも言えないからこそ、現実には居場所がなくて。ここでしか悩みを吐き出せない。悩んだって仕方ないのに、障害しんどいという気持ちは、何年経っても薄まるのものではない。

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