第25話 感情が揺さぶられる日

 ある日、俺は凪姉が一人暮らしするマンションを訪れていた。

 シオンの家に比べると劣ってしまうが、高層マンションであることには変わりない。


 今日は月に一度のお出かけの日だ。

 しかし、凪姉は買い物ではなく、家に来いと言ってきた。

 上昇するエレベーター内の鏡を見ながら髪型と服のチェックしてから部屋へ向かう。


 チャイムを鳴らすとすぐに扉を開けてくれた。


「鍵は? 不用心じゃない?」

「この家には父かシンしか来ないからな。心配するな」

「そっか」


 昔からそうだが、凪姉と話すときだけは本調子じゃなくなってしまう。

 もうかれこれ17年の付き合いだが、未だに慣れない。


「ニュースを見たぞ。初彼女がフランス人とはな」

「彼女!? 違うって、ただの友達だよ」

「そうか。ネット社会の弊害だな。有名人の友を持つことがこんなにも大変だとは知らなかった」


 凪姉はテーブルにマグカップを二つ置いた。

 向かい合って座り、ミルクと角砂糖の入った小瓶を俺の方へ押しやってくる。


 俺は真っ黒なコーヒーを一口すすった。


「にっが」

「無理しなくていいのに。ほら、ミルクと砂糖を入れろ」

「いや、俺はブラック派だから。このコーヒーは家のよりも苦いだけ」


 凪姉はふっと笑い、余裕の笑みでコーヒーを飲んだ。


「ただの友達なのに、ファーストネームで呼び合う仲なのか?」

「……は?」


 なんでそんなことを知ってるんだよ、と聞こうとする前に答えが返ってきた。


「ネットニュースになっていたぞ。もっと自分のことにも、友達のことにも興味を持て」


 頬杖をついて微笑む凪姉を見ていると、つい何を話そうとしていたのか忘れてしまう。これも昔から同じだった。


「悪いクラスメイトがいるのかな?」 


 血の涙を流しそうな勢いで睨んでくる奴もいるから、誰かが情報をリークしていても不思議ではない。


「好きなのか?」

「はぁ!? す、好きなわけないだろ」

「そうか? 並んで歩いている写真を見る限り、お似合いだと思うぞ」

「それは切り取られたものだからだ。写真だと本質は見えない」


 俺とシオンは魔物と共存する同志ってだけだ。元敵同士でもあるわけだし。


「……毎月会うのをやめよう」


 唐突すぎて何を言われたのか分からなかった。

 何度も凪姉の提案が頭の中を巡り、ようやく意味を理解した。


 今の俺がどんな顔をしているのか、自分でもイメージできないくらいの衝撃だった。


 小学生までは互いの家を行き来する仲だったのに、俺が中学生になってから続く毎月のイベントは突然終わりを告げられた。


「な、なんで……。俺がシオンと一緒にいるからか!? ネットニュースになったからか!?」

「違う。私はもっと早くシンから離れるべきだったんだ。シンは何よりも私を優先してしまうだろ?」


 その通りだった。


 凪姉と会う日に被った行事や、お誘いは全部断ってきた。

 今日だって、ウェルヴィとシオンを無視してここにいる。


 でも、それの何が悪いんだ。

 俺は俺の好きなようにしているだけだ。誰にも迷惑はかけていない。


「凪姉に彼氏ができたの? それなら、そう言ってよ。別に文句なんて言わないからさ」

「私にそういった類いの者はいない。逆だよ。シンは私以外の女の子に興味を持っただろう?」


 言語化されて初めて自分の中でもやもやしていたものの正体がわかった。


 俺は気づくとウェルヴィのことを考えている。

 買い物中は絶対にポテチを買ってしまうし、家で悪さをしていないか心配になってしまう。


 最近はシオンのことも思い浮かべるようになった。

 複雑な日本語を教えるのは楽しいし、ルクシーヌを連れて散歩に行くのも楽しい。


 俺はウェルヴィの願いを叶えられて、シオンの気持ちに応えられる男になりたいと思うようになっていた。


 その間は凪姉を忘れられる。


「俺は、凪姉のことが……好き、じゃないのか?」

「それは家族愛に近い感情だ。私は姉以上の存在にはなれない」

「じゃあ……」

「シンは初めて人を好きになった。それだけだ」


 こんな別れ方をしたくなかった。

 行きはルンルンだったのに、帰りは告白したわけでもないのに、振られたような気分だった。


「告白なんてしたことないから振られるとか知らねぇよ」

「えめちーというものがありながら、別の女に浮気かにゃ?」


 独り言の返答に驚き、声のした方を振り向く。

 しかし、誰もいなかった。


「どこ見てる。下にゃ」


 目線を下げると、そこには真っ青の被毛を持つ猫がちょこんと座っていた。


「ルクシーヌ? なんでここに」

「散歩にゃ。この世界の風は嫌いじゃにゃい」


 ルクシーヌは背中を目一杯伸ばしてから前足で耳をかく。


「今、世界中のえめちーファンがシーちゃんに嫉妬しているにゃ。そんなシーちゃんを喰ったら美味いだろうにゃー、なんて」


 シーちゃんって俺のことかよ。


「俺は餌じゃない」

「そうにゃ。だけど、ほとんどの人間はルーたちの餌に変わりないにゃ」

「人間を喰うのか?」

「食べる奴もいるって話にゃ」


 ついてこい、と言わんばかりに俺の前を歩き出したルクシーヌは貴婦人のようなたたずまいで目配せしてきた。


「みんなに嫉妬されても、シーちゃんは嫉妬しにゃい。面倒くさいとしか感じにゃい。きみは怒ったことがあるのかにゃ?」


 言われてみると直近で怒ったのはウェルヴィがダンジョン・スタンピードを予期しておきながら俺に教えなかったときだ。


 柴崎も大石も筋の通らないことをしたから行動しただけで、怒りに任せて動いたことは一度もなかった。


 俺の前をトテトテ歩く猫の背中を追う。

 いつの間にやら『始まりのダンジョン』の前だった。

 これがルクシーヌの散歩ルートらしい。


「おや、昨日はなかったものがあるにゃ」


 一瞬にして頭に血が上るのが分かった。

 俺はダンジョンの入り口に駆け寄り、放置されたそれをそっと抱く。


「こいつはピクシーラビットだよな」


 俺の腕の中にいる小さなうさぎの魔物はぴくりとも動かず、息もしていない。

 それは全く害のない、経験値稼ぎにすらならない魔物だった。


「ウェルヴィの同胞だよな」


 東京にいるうさぎの魔物はウェルヴィのそばにしかいない。

 元々うさぎ系統は関西にあるダンジョンにしか生息していないと公表されている。


 こいつがここに放置されたということは、どこかのクソがこいつを狩って、わざわざ東京まで運んだってことだ。


 それも俺に喧嘩を売るだけのために。


「……にゃるほど。ルーはシーちゃんを見誤っていたのかにゃ」


 封鎖されたダンジョンの入り口には、ご丁寧に差出人の名前まで書かれたメッセージカードが置いたあった。

 Aランクパーティー『九尾の狐』のリーダー、カガリこと加賀かが 理央りお

 俺はその男を徹底的に潰すと決めた。

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