第29話 うさぎの王がいない夜

 家に着いたのは深夜だった。

 足は重いし、傷は痛むし、汗でベタベタするし、最悪だ。


 砂や泥を落とすためにも風呂に入りたいが、面倒くさい。

 でも、このままベッドに寝転びたくはない。

 葛藤しながら家の前に着くと、玄関の前に黒い影があった。


 置き配か?

 箱の中からウェルヴィが出てきたりしたら発狂ものだな。


 臆する元気もなく玄関に近づく。

 すると影が揺れて、蒼い瞳が俺を見つけた。


「……シン」

「シオン? どうしてここに。何時からいた?」

「朝から。学校も行ってない」


 シオンの隣では猫の魔物であるルクシーヌが眠そうに鳴いた。


「中に入ろう。体を暖めないと」

「えっち」

「バカなことを言う元気はあるんだな」


 俺は右手で玄関を開ける直前に鍵を左手に持ち替えた。


「痛むの?」

「ここで配信を見ていたのか?」

「答えて」

「……まぁ、少しだけ」


 部屋の灯りを点けながら洗面所に直行する。

 服を捲ると、脇腹には大きめの保護テープが貼られていた。


「見せて」

「やめろ、絶対に痛い!」

「アタシに連絡をよこさなかった罰」


 シオンは問答無用でテープを剥がす。

 俺は指先まで力を入れて、必死に声を押し殺した。


 鏡に写る傷は痛々しくも、しっかりと縫われていた。

 見なければよかった。余計に痛む気がする。


「抜糸もしていないのにどうするの?」

「ウェルヴィを迎えに行ったときに診てもらう」

「アタシがやってあげようか?」

「バカか! 素人にはさせん!」


 リビングを抜けて冷蔵庫から取り出した炭酸飲料をあおる。


「っぷは! 水分をとるだけでも痛むなんて。やってくれたな、カガリ」

「いいじゃん。向こうは生き埋めだったんだから。救出作業は難航したみたいだよ。誰かさんが全階層の中央を爆破したから」

「誤解だ。あんなにも脆いと思わなかった」


 シオンはくすっと笑い、ソファに腰掛けた。


「消毒させてよ。シャワー浴びてきて」


 なんとなくこそばゆい。

 いつもシオンと口喧嘩しているウェルヴィがいないからか、調子が狂ってしまう。


 言われた通りにシャワーを浴びて、シオンに傷口の消毒をお願いした。


「慣れてるのか?」

「アタシ、ドクターを目指してるから」

「初耳だが」

「この前決めた」

「なんでまた」

「佐藤ってシンの周りをウロチョロしている女が目指してるから。ドクターになるってすごいことでしょ?」

「そんな理由で?」

「あの女が目指せるなら、アタシだって目指せる。そしたらシンが褒めてくれるんだよね?」


 シオンの目は笑っていなかった。本気でそう思っているのだろう。


「お前の嫉妬心は見上げたものだよ」

「嫉妬を司る猫の王に認められたくらいだからね」

「おい、待て。その理屈なら俺は――」


 そこまで言って口を閉じた。

 危ない、危ない。なんてことを言わせようとしているんだ、この女は。


「いいよ。シンの色欲を見せて。ウェルヴェリアスがいない間はアタシが面倒をみてあげる」


 にじみよるシオン。

 ルクシーヌはあくびをするばかりで助けてくれそうになかった。


「シオン、落ち着け」


 そのとき、スマホが震えた。


『おい。発情フランス女に、わたしのシンに手を出すな、と伝えろ』

「ウェルヴィ!?」


 なんて素晴らしいタイミングだ。

 いや、待て。それはおかしい。


 小さく舌打ちするシオンを無視してリビングを見渡す。


「まさか見ているんじゃないだろうな」

『むしろ、わたしが見ていないと思ったのか? 早く服を着ろ。風邪をひくぞ』

「盗撮だぞ」

『それはわたしのセリフだ。こっそりと小型カメラを置いて帰っただろう』


 バレていたらしい。

 万が一のときのためだ。他意はない。


『無理はするな。傷が開くぞ』

「わかっている。お前こそ、調子に乗って冒険者を殺すなよ」

『わかっているさ。……なぁ、シン。わたしの願いは忘れろ』


 なにを言い出すのかと思えば、弱々しい声でくだらないことを告げてきた。


「断る。次は俺がお前を救う番だ。どんな手を使ってでもな」

『……そうか。わかった。おやすみ、シン。寝込みを襲われるなよ』

「シオンにはきつく言っておく。安心して眠れ。お前も今日は疲れただろ」


 結局、シオンは自分のマンションに帰らなかった。

 ルクシーヌもお気に入りの場所を見つけたようで、首根っこを掴むのも可哀想だからそのままにしておいた。

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