石田三成の驚愕
忍城を沈めるつもりだった水が、忍城にとって最強の兵力となっている。
「済まぬ、一刻も早く逃げてくれ!」
あくまでも上から目線になるまいとした三成の言葉が響く中、忍城の水位が引いて行く。
そして流れ出した水は側にいた石田軍の兵を飲み込むだけでなく、三成その物を飲み込もうとする。
もはや見栄も外聞もない状況のはずなのに、それでも三成は後ろばかり振り返る。
「まったく、いつまでそうやって殊勝ぶってられるのよ!」
未練がましさはなく、あくまでも兵士のためと言う顔を崩さない。当然ながら水から逃れていた甲斐姫が吐き捨ててなお、三成の顔は変わらなかった。それがいけないとか言う発想は三成にはないし、それがこちらを煽っていると言う発想も甲斐姫にはない。
「たとえいかなる嘲弄を受けようとも、この敗北の恥辱をそそぐ……!」
目一杯の太さを込めて送り出された言葉は、相変わらず音量が伴っていない。小声で吐き出される言葉には、どうしても小声相応の価値しかない。ましてや大水が流れている以上、甲斐姫はおろか近々の兵たちにも聞こえないのではどうしようもない。
「それにしても、ここまであっけなく堤が崩れるとは!」
「あらかじめ教えておいてくれた奴がいるのよ!ふざけた言い草だったけど指示は本当に正確で、まるで全部お見通しだってぐらいに!」
「風魔め!」
「風魔風魔って、他に能がないの!」
「風魔以外の誰が!」
三成には他の答えなどない。そして甲斐姫でさえも、他に答えを持っていない。
会話がかみ合わない以上、そこに優劣はない。
そうなれば結果は明白だった。
「うぼっ…!」
「ああ、あぶぶ……!」
「いだだっ……!」
一刀の下に切り捨てられた兵はまだ幸せだったかもしれない。激しく抵抗したせいで何本もの刃をその身に受けたり、水に流されて飲み込まれた兵士たちが次々と命を落として行くその有様と来たら、見るに堪えない物だった。
いや、それでもまだ、ましだったかもしれない。
「この野郎!」
「この野郎!」
「うわ何を、あい、あい、あああ…!」
刀や槍でなく、木の棒による連打。当然一発一発の破壊力はないがそれでも連続ともなれば容赦なく痛い。
袋叩きにされた石田軍の兵が次々と落馬及び転倒し、集中攻撃により命を奪われて行く。逃げようにも水が退路を阻み、斬ろうにも数が多すぎる。さらに言えば水が引いたとしても池の底になっていたせいで足下が泥だらけのせいでまともに走れず、次々とぬかるみにはまっては倒れ、そのまま殴り殺される。
その主犯たちこそ、堤を作った農民たちだ。
石田軍から金穀を受け取っておきながら、平然と北条のために戦う。その程度には農民はしたたかだった。
「誰がお前なんかに心底から従うか!」
「そうだそうだ、北条様をぶっ潰して全部猿の土地にしようって考えてる事なんかお見通しなんだよ!」
武士ならばできないような手のひら返しを平然と行い、金をやったも当然の存在の命を奪う。それが武士道精神などとは無縁のこの時代の百姓だった。いや命だけではなく尊厳まで奪う程度には、この百姓たちは冷酷だった。
「刀…!」
「これは戦利品だ!」
「何だとおめえ独り占めすんな!」
「しょうがねえ鎧でも持って帰るか!」
武士が武士たる証をはぎ取りその道具を奪い合う、急造の山賊団のような組織が出来上がっている。しかも決して迫る水に呑まれないようにしながら分け前を決めると言う、この上なく質の高い集団だ。
「アッハッハッハ、アーッハッハッハッハ……!」
甲斐姫は姫らしくもなく笑う。それが一番いい手だと思ったから笑う。
自分たちの勝利、相手の敗北を満天下に示すべく笑う。
「ああもう、一時の喜びに浸っていろ!」
捨て台詞と言うには圧のある、すぐさま逆襲してやると言わんばかりのセリフも甲斐姫の心をかきたてる。
「ようやくその気になったのね!まったく、どうして冷静ぶってられたわけ!」
「兵たちを傷つけられば熱くもなる、兵なくして将なし!」
「だったら逃げないで向かって来なさいよ!」
「向かえば死ぬのは明白!なれば退くまで!」
「言行不一致よ!」
それでもいくら騒ぎ立てても心が揺らがないのには少しばかりいら立ちもしていた甲斐姫だったが、もう慣れてしまっていた。そっちがあくまでもそのつもりならば、こっちもこっちで決してやり方を変えてやらない。それぐらいの余裕が甲斐姫にはあった。
「人の事を言えた義理ではないが、勝ったと思った瞬間ほど危うき物はないぞ」
もうわざわざ応対もしない。その意味も感じないから。
「あんたと私を一緒にしないで!」
だがそれでもそう吠えてはやる。義務だからだ。
そして、また別の人間も義務以上の責任を果たそうとしていた。
「また堤が壊れた!?」
「あ、あいつだ!」
堤に向けて投げられた一発の手投げ弾。
本当ならばなんて事のないはずだった一撃だったが、乱れていた石田軍にそれを弾き返す余裕はなかった。
「殿!」
「左近!」
それを弾き返せた唯一の存在である島左近は、この時堤の真反対の側にいた。当然急ぎ駆け付けようとしたが間に合わず、最悪の存在をもって足を止められてしまった。
「こっちからも水だ!」
左近の目の前で爆発した手投げ弾は堤を壊し、そこからも漏水を起こした。あっという間に水は小川となり、池となり、多くの兵を沈めた。
「この野郎!」
「おおっと命はお大事に!ここで共倒れなんて事になっちゃあ喜ぶのはこちらのお姫さんだけですぜぇ!」
「何だお前ふざけた…!」
そこに割り込むまったく緊張感のない口上。甲斐姫がうっとおしげな顔をした事から北条の味方とも思えないが、いずれにしてもやりたい事だけやって言いたい事だけ言って消えた存在が石田軍の心を逆撫でしたのは言うまでもない。
「あれか!お前にあれこれ教えたとか言うのは!」
「そうよ!相変わらずふざけた口上ばっかり、いったい何様だかもわからない男よ!」
「何様だかもわからぬとか適当な事を言うな!どうせ風魔だろうが!」
「やかましいわねこの馬鹿の一つ覚え!」
風魔、風魔。確かに一番ごもっともな可能性であるが、そればかりしか言わないのは甲斐姫が言う通りの馬鹿の一つ覚えであり、賢い物言いではない。
「では何だ!風魔以外に北条を助ける勢力がどこにある!」
「知らないわよそんなの!」
そこに飛び込む、石田軍が使っていた刀。
「なめるなぁ!」
三成が必死に弾き飛ばすが、それだけでどうにかなる訳でもない。
その間にも水は溢れ出し、完全に三成と左近は分断されてしまった。
「橋だ!橋を架けろ!」
「しかしどこまで行くかわからない以上!」
「とにかくやれ!」
左近が吠える中必死に兵たちは槍を突き出して橋代わりにしたり銃弾を放って成田軍を討とうとしたりしたが、どちらも役目を果たすには程遠い。
それに橋を架けようにも増水に増水を重ねているためいつ何時水が頂点に達するかわからない。下流に行こうにもどこまでが下流かわからないし、ましてやそっち側は十分に北条の領国である。
「どこまででも逃げる!逃げて再戦を誓う!左近!必ずや再び手を取り合おう!」
三成はそれでも、下流を目指して逃げた。
生きる望みを掴むために。
「北条軍は追って来ません」
「待ち伏せでもあるのか。まあいい、突っ切るしかない……」
関東平野を駆ける軍勢は、この時およそ千二百。
元々の見張りは五百以下だった所に次々と集まって来て二千以上になっていたのだが、三百近くが水に呑まれ、あとは置き去りにされたり既に三途の川を渡っていたりした。
彼らのためにも、絶対に生き延びて雪辱戦に賭けるしかない。そのためならばどんな辱めでも受けてやるまで。
「馬蹄の轟です!」
そんな三成に向かってぶつかって来る、馬蹄の音。
三成は来たかとばかりに正面を見るが、馬も旗も人もいない。左右を見てもまた同じだった。
——————————ならば。
「あ、あ、あれは!?」
後方を向いた三成は、ついに言葉を崩した。
竹に雀—————。
「伊達藤次郎、見参!!」
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