「盗人にも三分の理」

「うーむ……」


 石田三成は堤の上で嘆息していた。


「水の量そのものは足りていたんですがねえ」

「まあ孤立させる事はできたから良しとせねばなるまい。あとは人的被害がどれだけだが、まあ千は下るまい……」


 いざとばかり水攻めを仕掛けてはみたが、思いのほかうまく行かずまだ本丸は健在だった。

 これでは城を落としたとは言えないし、おそらく主要人物も仕留められていない。それでも一般兵や兵糧などの損害はあるはずだが、どれほどなのかわからない。


「とは言えあまり長引かせれば不利なのは向こうです。我々は堤を壊されないように、さらに他城からの援軍が来ないように守るしかありません」

「そうだな。敵援軍をはたき落とせば向こうの戦意も萎えよう」

 それでも失敗したなりの事は考えているのが三成だった。堤から降り、本陣へと下がって行く。







「ああ、残念ながらとどめを刺す事はできなかった。とは言え忍城はかなりの打撃を受けており、必ずや起死回生のために手を打って来ると考えられる。そのために諸将にはどうか警戒に当たってもらいたい」

 三成が深く頭を下げるも、諸将の反応は悪い。大した反応をする人間も少なく、皆一様に北の方ばかりに目をやっていた。

「いずれ上杉勢もやってくる。そのためにも彼らが通りやすいようにせねばならない。ではこれにて」

 すぐさまその視線の意図を察した三成は話を切り上げ解散させたが、その足取りもまた迫力に乏しい。勇ましいはずの顔が、あまりにも三十一歳の若造だった。


 しかも、こういう場に慣れていない事が丸わかりの。

 そんな人間が信望を集めるのは、正直簡単ではない。だからこそ、三成はできる限り丁重に、そして真面目に振る舞った。自分なりに、自分のやり方で、できる事をしたのである。



「まったく……結局上杉に頼らねばならないのか……」


 自分なりに仕事をしながらも手ごたえを掴めない主人に対し、股肱の臣は深く頭を下げていた。主人が自分の存在に気付くまで、じっと茶色い地面ばかり見つめている。主人が目の前をうろつくのを横目にしながら、じっと我慢していた。


「ああ、どうしてだ、どうしてこうあっさりと……」

「…………」

「そもそもだ、なぜ抵抗するのだ。犠牲者をなぜわざわざ増やそうなどと……」

「……」

「あ、ああ!左近!すまない!」

 そんな主君が自分に気付いて寄って来てくれる姿が左近は好きだった。

「まあまあ、本当大変ですよ。年も石高も上のお方を率いる立場ってのは」

「私が関白殿下の子ならば少しはましかもしれんが」

「それはそれで厳しいと思いますよ、権中納言様の事もありますし……」

 権中納言こと秀吉の甥の秀次は小牧長久手の戦いで失態を犯し池田恒興を失ってしまい、以降は後継候補から半ば外されかかっていた。それでも自分なりに懸命にやっているようではあるがその後どうなるかはまだまだかなり怪しく、本人もかなり苦悩している事は三成も知っている。

「何でも自分でやろうとしなくてもいいんです、どんどん皆さんを頼ってください。ああ俺も」

「そうか…だが私は…」

「関白殿下が一体何人に支えられて関白になったと思ってるんですか、ささお気になさらず」

 左近に声をかけられ、ようやく肩の力を抜きながら天幕に入る。対象の存在を示す「帥」の旗がたなびく天幕は静かにゆれ、主の出迎えをしている。


「なあ左近、私は正直まずい事をしているかもしれないと思っている」

「どういう事ですかい」

「確かにこの水攻めは関白殿下のご指示だ、関白殿下の…!」

「まあ落ち着いて下さいよ」

「だが上杉がこれを許すだろうか…」


 北条が滅んだ後、武蔵に入って来るのは誰か。

 まだ今の所三成には分からないが、入りたがるのは上杉だろう。「関東管領」を名乗る上杉にとって武蔵は関東の中央であり絶対に逃したくない地であり、例え一部分だけでも主張して来るだろう。また実は景勝以外にも上杉憲政の孫の男子が残っており、「関東管領」の名乗りを上げるには不足していない。その上杉にとって、水攻めと言うどうしても領国の荒廃を伴うやり方は認めづらいはずだ。

「そういう所が殿らしいんです。もし上杉が文句を言って来るような俺がごり押しした事にしておきますから」

「左近…」

「それが家臣ってもんですからね」


 三成にしてみれば実にありがたい言葉だった。二十歳ほど年上の家臣は実父の正澄以上に父親めいた存在であり、自分に不得手な事を任せられる器量がある。まだ四万石しか手取りのなかった時分に二万石を出して引っこ抜いた価値はあるなと自画自賛しながらもどうしても頼ってしまう。

「いかんいかん、大谷刑部殿にも…」

「刑部様の前では強い殿でいて下さい、いつも通りの。まあ刑部様ならばある程度は助けてくれるでしょうけどね」

「痛み入る」

 吉継のような存在が少ない事もまた、三成の弱点だった。これまでは別に気にする気もなかったが、こうなってみると加藤清正、加藤嘉明、黒田長政、蜂須賀家政、細川忠興など若い友垣の多い福島正則がうらやましく思える。長束正家は年齢差があるし、今一緒にいる浅野長政はどちらかと言うと正則寄りの人物で息子の幸長もまたしかりだった。小西行長とは仲がいいが、今は九州にいる。


「ま、予定通りに行きましょう」

「そうだな。何もあわてる必要などない。とりあえずは堤を見て回ろう」


 ようやく落ち着きを取り戻した三成は兵を引き連れいつも通りの堤の防衛に向かった。自分なりに犠牲者を悼み、一刻も早い乱世の終わりを願いながら、じっと自分が築かせた堤の方へと向かう。

「ああ殿!」

「敵襲でもあったか」

 その途上で慌てふためく兵士と遭遇した際には馬を降り、優しく声をかけられる程度には、三成は落ち着いていた。

 だが兵たちの着衣に乱れはなく、さらに負傷者がいる様子もない。強いて言えば、膝をすりむいた人間が一人いるだけ。


「こんな物が、足下にくるまれていたのです!」

「こんな物?」


 その「負傷兵」が取り出した布には、一枚の短冊がくるまれていた。


 やけに物がいい短冊と、同じくやけに物がいい墨。

 関東なのにまるで京風のそれ。いったいどこで手に入れたのか。


 開くなりそこまで理解した三成の目に、一首の短歌が入った。




 小さけど 万一の凶 ただ恐れ 波に呑めども 二見は萎えず




「なんだこれは!」


 そしてその短歌は、静まりかかっていた三成の心を全力で逆撫でした。


「短冊ですよ」

「真面目に物を言え!」

「真面目におっしゃってるんです、こんなただの短冊なんか気にしてもしょうがないじゃないですか。短冊で人殺せますか」

「……チッ!」


 三成は丁重になだめた左近の言葉を肯定するかのように鼻息を荒くし、この場にいる兵たち全員に聞こえるほどの舌打ちをした。


(この私を侮っているのか……!いや私の掲げる信念を侮辱しているのか……!)


 小さいなりに必死に災いの芽を摘み取ろうと水攻めにしてやったが、それでも決して二見、つまり相対的な災いの芽でしかなく、絶対的なそれがなくなる事はない—————と言うだけでも十分に挑発だが、三成にはすぐにその先の意味が分かってしまった。


「小さけど 万一の凶」


 と言うのは三成の旗印である「大一大万大吉」の反対であり、三成の策はおろか三成の理念そのものに喧嘩を売っている。これはかなり強烈な悪意の持ち主だ。


(一人が皆のために、皆が一人のために動く、それの一体何が悪い!)


 まだ自分だけへの悪意だけなら耐えられるが、自分の掲げる理念、それも世間的に言って極めて真っ当なはずの理念を揶揄したのは許せない。もし捕まえたらたっぷり動機を聞いた上で使い慣れない刀で八つ裂きにしてやる。三成の感情は、そこまで一挙に沸騰していた。




「左近……城内に情報を吹き込む事はできるか?」

「何とですか?」

「この場所こそ堤の弱点であると」

「それって!」

「ああ、残っている連中をここにかき集めいっぺんに叩く。そして圧倒的な力の差を見せ一気に殲滅する」


 そして三成は、ある種の誘計を張らんとした。


「しかしこの状況でそんなに焦る必要は!」

「何とかして抵抗する気持ちを奪わねばならぬ。さもなくばこれから先なおの事やりにくくなる」

「そこまでやってどうするんですか!落ち着いて下さい!」

「うむ、うむむむむ…!!」

「こんな紙切れ一枚でそんなに動揺してどうするんですか!」

「ああ、わかった、わかった…!お前たち、敵はこんな小手先に頼るしか勝ち筋がなくなっているのだ!油断せずにいれば勝負は見えている!警戒を怠らないでくれ!」


 ギリギリの所で理性を膨らませたものの、先ほどまでの余裕は既に消え失せ殺気ばかりが三成を支配し、左近でさえも触れがたきほどに発熱していた。

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