利用価値
「ここまで早くできるとはな」
「よくできたと思ってくれれば幸甚です」
昌幸がため息交じりに堤を眺める一方、三成が謙遜する素振りを見せながら堤に向かって右手を振る。
男盛り、三十一歳の三成は勇ましく、昌幸や左近よりもずっと清々しかった。
「しかし百姓たちをここまで駆り出して…」
「北条の信望は予想外に落ちていると言う事でしょう」
あまりにも雄大な堤を作るのに、一週間足らず。秀吉の弟子らしいあまりにも早い工事だった。
「後はもう川を氾濫させるのみ。さすれば忍城は沈むであろう」
「沈まないかもしれませぬが」
「沈まなくともいいのです。梅雨はまだ早うございますが、それこそ脅しになる」
今は旧暦三月中旬。梅雨まではまだ二カ月以上ある。
もちろんそれ以外にも雨はあるが、それでもそれ以上に大きな狙いもある。
(百姓たちには目一杯食べさせる、それが策であり慈悲と言う物だ)
自分たちの工事に参加してくれた百姓には目一杯飯を食わせる。その事を忍城の中にどうにか宣伝させ、城内の人心をぐらつかせる。
「確かに見事かもしれませぬ」
「どうしたのです」
「いえ、あまりにも見事すぎるのです」
にもかかわらず奥歯に物が挟まったような言い方をする昌幸に対し、三成は頬の肉を盛り上げる。年上の部下からの批判に不愉快そうになり、鼻から空気を吸って口から強く吐き出した。
「それはうますぎる時には注意せよと」
「それもあります。しかしそれ以上に気になるのは上杉様の事です」
「上杉家は下野の事もあり遅れている。だが逆に言えば上杉の力なしでこの忍城を落とせばいよいよ北条は我々に恐れおののき、上杉軍も動きやすくなるだろう」
実はこの時豊臣北方軍と言うか石田軍は、三万はおろか二万もいなかった。
前田軍が小田原側に回されたのと本来その大半を占める上杉軍の到着が遅れているのが最大の理由であるが、三成はまるで気にしていない。
「百里を行く者は九十里を半ばとすと申します」
「心得ておこう」
三成は昌幸の忠言も聞き流した。
自分を信じ、それ以上に秀吉を信じていた。
「やれ」
そして彼は、晩春の利根川の水を忍城に叩き込んだのである。
※※※※※※
「これも予測の範囲内だって言うんですか!」
大水が襲った忍城の本丸で、鎧を着て刀を腰に挿した女性が吠えていた。
言うまでもなくその名前は甲斐姫であり、その顔も真っ赤になっている。
「犠牲者は!」
「皆無です」
「これもまたって!」
別の意味でイライラしているせいかさらに声を荒げるが、誰もその声に答えようとしない。
実際、そのおかげで水攻めとか言うとんでもない攻撃を受けながら死者は出ていない。さらに言えば穀物や武具の被害もほとんどない。
「どんなにうさんくさかろうと役立てば良しと言う事ですか!」
「まあそうだ。彼が少なくとも我々の敵でないことは明白だろう」
「かと言って頭から信じるのもどうかと思いましたけどね、ああそうですけどね!」
—————まったく、あの男の言う通りだ。
石田軍が水攻めを仕掛け忍城を鎮めようとする事、しかし本丸までは沈められない事。
そして相手は農兵を増やして守るのを逆用して住民たちを飢え死にさせようと図っている事—————。
「だとしても一体どれだけ籠城できるのです」
「ざっと三月ほど」
「そう、それならばとりあえずは安心ですね!」
言葉面ばかり穏やかで、口調はやたらに乱暴と言うのが甲斐姫の意志だった。実際三ヶ月も持てば刈り入れの季節となり食糧がまた増える。そうなればその点での心配はいらなくなる。だが実際問題、三ヶ月も水に浸かれば城は腐敗するし、人心が持つか怪しくなる。いくら農兵たちを口減らしと称して帰農させたと言っても、まだ兵士だけで五百人近くだけでおり、それ以外にもその家族その他や侍女たちなどがいる。もちろん彼女たちにも飯を食わせる以上の事はせねばならない。
「なればこそです。おそらく敵はこのまま構えていれば自分たちの勝利だと見ているでしょう。あるいはこのまま放置して置けば良いとさえ思っているかもしれませぬ」
「……で、この紙に従えって言う訳?」
甲斐姫がはしたなく指差したその紙の先には、次の手がいやに具体的に記されていた。
確かにその通りにすれば、勝てるかもしれない。だがその通りにしない所で、少なくとも負ける事はなさそうに思える。単純に癪に障るのだ。
「と言うかこんな所まで誰にも気づかず来られるのは二種類しかないわよ、忍者じゃなきゃ何!」
「……泥棒」
「そうよ、泥棒よ!そんな泥棒なんかの言う事を聞いてもいいの!後で泥棒に救われたと後ろ指を指されても!」
「後ろ指を指されるのは幸運だ、死ねば指されようがないからな……」
そんな風に喚く甲斐姫に対し重々しくゆっくりと問いかけたのは、今この城で一番権威を持った存在だった。
「大叔父様…!」
「泰季で良い。この年まで生きておればいろんな恥を掻く。領民の中にもわしを恨む存在はいるだろう。だがそれを気に病んでいたらこんな年まで生きられん」
甲斐姫があわててひざまずいたその男の名は、成田泰季。
時に七十五歳。
もちろん隠居の身で家督は息子の長親に譲っているがそれでも年の数だけ皺と白髪も増えていた。
「では泰季様…」
「はっきり言おう。その紙の通りにせいと言ったのはわしだ。しかもそなたが言う通り、相手が泥棒だと知っての上だ」
「しかしその、泥棒を……」
「わしは知っておる。あそこまでの事が出来る盗人を。そしてその男が、北条に対し敵意を持っておらん事も知っておる。
姫様よ、毒を食らわば皿までと言う。その男に従って領民たちを動かした以上、わしらはその盗人と一蓮托生じゃ。そしてその成果が出た以上、わしらはその彼に大きな事は言えん。今更約束を横紙破りするつもりかね」
「…………」
「そういう事じゃ、どうしてもと言うならばこのわしを斬り捨てて行けい」
甲斐姫をして、黙るしかなくなった。
自分がどういきった所でただの上流階級のわがままでしかなく、真に庶民のためになる訳ではない。その泥棒の方がよっぽど役に立っている。
それは、どうにも覆りようのない現実だった。
「しかし!私は黙って見ているなど!」
「わかっておる、姫様が昔から言われていた通りの存在である事はよく存じておる。されどその先にある物は何かわかっておいでであろう」
「無論です!」
甲斐姫は開き直ったように立ち上がり、その泥棒の策とやらの先兵になってやると言わんばかりに尻を向けようとした。そんなはしたなさの塊のような行いに対し泰季は何の文句も言わず、ただ満足そうな笑みを浮かべるだけだった。
「舟ぐらいあるのですよね!」
城の裏手に回った甲斐姫は、少しばかり気を立たせながらも水没した三の丸の方を向いた。うなずく家臣の言う通り確かに小舟はあったが、とても一城の姫が乗るような豪勢なそれはなく、文字通りの丸木舟だった。
「それは無論。ですがこの舟の数では運べても二百程度かと」
「十分です!元からその気だったのでしょう」
「それはその…」
「私だって覚悟はあります!」
成田軍の人間とて、彼女の武勇は知っていた。それでもこの戦いがあまりにも生還の望み薄きそれであり、それ以上甲斐姫の事が心配だった。
「いざとなれば遠慮なくお逃げ下さい、領民は味方です!」
「いざとなれば、ですね!」
こうして甲斐姫は小舟に乗り込み、忍城を見下ろしながらどこかへと向かった。そしてその小舟と同じ方向に数隻の小舟が続き、また別の方向に何隻かの舟が向かった。
その内一隻には、火縄銃が積まれていた。
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