小田原へ迫る

 石田三成が忍城を沈めようとしている頃、小田原城に津波が接近しようとしていた。

「まったく、大したもんじゃ!」

 その津波の主である豊臣秀吉は相変わらずの笑顔のまま、自分がかき集めた将たちをねぎらっていた。


「この調子ならば小田原城にお目にかかる、いや抜くのもさほど時間はかからんかもしれんのう、さすがは徳川一の武者!」

「もう少し言葉を慎んでくだされ。関白殿下が徳川一と褒め称えたのは榊原殿でしょう」

「何を言うか、榊原式部(康政)は日ノ本一の忠義者、そなたは徳川一の武者!それで良いではないか」

「本当に褒めていただけるのであれば徳川一の不忠者を今すぐ首だけにして下さるようお願い申し上げます」


 もっとも、その人たらしの才能が通じない相手もいる。

 諸将の中でいち早く戦果を挙げた徳川の重臣井伊直政を士気高揚も兼ねてもてはやそうとしたが、直政はまったく冷淡だった。年上とは言え同僚の康政の事を持ち出すのはまだともかく、まったく予想もしない人物を持ち出して来た。

「それは徳川殿の意志なのかのう」

「私情でございます」

「やれやれおっ母、いや母上も思わず慄いてしまうわ。武士とは人斬りじゃが、四六時中人斬りで居てはすぐに燃え尽きてしまうぞ。気を付けろ」


 自らの口から秘匿する気もなく石川数正への悪意を吐き出し、さらに私情と言う事を隠しもしない。そんな赤鬼とも呼ばれる存在の前には、秀吉は意外なほど無力だった。




「あれの気持ちは筋金入りですから。そう言えば関白殿下にはそちらの趣味は」

 そしてその赤鬼の主である男は、狸親父と言われる程度には軽妙だった。言外に直政とはそういう関係でしたと言う事を隠しもしないまま、秀吉にすり寄る。

「わしは正直、その点はまるで。その点細川越中(忠興)はありがたくて」

「そうですか、それはそれは……」

 実際そういう関係であったことがどういう意味を持つのか秀吉はわからない。だが信長が若い時は前田利家、年を取ってからは森蘭丸とそういう関係であったと言う話ぐらいは知っているし、信玄や謙信にもその手の存在がいたことは知っている。

「まあそれはいいのですが、あまりにも気が逸るのはよろしくありませぬ。敵は決して弱くないことを伝えねばなりませぬ」

「そうじゃな。小田原もいいがその取り巻きたちを片しておかねばな、東も北も。その方面は戦前の約束通り徳川殿にお任せする」

「承りました」


 家康はあくまでも丁重だった。


「後はもう一人の待ち人ですか」

「ああ。去年からずっと、年が明けてからも使者をやっているのだが梨の礫だ、何がしたいのかちっともわからん。わしと戦う気なのか媚びを売りたいのか」




 そして秀吉の頭の中にあったのは、もう一人の男だった。




 この国でほぼ唯一、自分に服していない存在。

 単純に考えても、あまりにも不可解な存在。



 

 —————伊達政宗。


 去年九月、いきなり発生した下野の内乱を鎮めると称して出兵、事実上下野を乗っ取ったも同然の男。


 下手に北条が動けば余計に自分の首を絞める事を知っているかのような凄まじいまでの手際。

 あれほどの国を、十月上旬にはまるっきり手にしたほどのとんでもない手際。

 北条はおろか佐竹にも上杉にも手を出させないほどの手際。 


 敵に回すと恐ろしいのは間違いない。



 だがそれ以上に、なぜ下野を襲ったのかわからない。


 自分の領国を膨らませて関白と戦う気か、それとも今回の征伐の目的である北条の戦力を削っておきましたと媚びを売っているのか—————ちっともわからない。


「もしこのまま何もせぬようであれば」

「その時は北条の次の獲物として狩るまで。立花や鍋島をそうしたように東北の統治勢力にもやらせる。右京亮殿にもひと働きしてもらうかもしれぬ」

 九州征伐の際にも鍋島直茂や立花宗茂と言った当地の大名を名目だけでなく戦力として使い、戦後はそれなりに優遇もした。もし伊達がこのまま北条の滅亡を黙って見ているようであれば、右京亮こと津軽為信らにもひと暴れしてもらうつもりだ。


「殿下、少し気になる事が」


 二代巨頭と言うべき秀吉と家康が策を語り合う中、ずいぶんと気安く天幕を開けて来た男がいた。口こそ丁重だがまるで隣人の家に入るかのようにやって来た男は、どこか安堵したようだった。



「利家、気になる事とは何じゃ」



 前田利家と呼ばれた男は、本来ならば北陸軍にいるはずだった。

 だが下野の情勢の変化により上野に北条の援軍が来にくくなったため、東海道を攻める軍勢に回っていた。


「下野の事なのですが、それがあの男がまた妙な事を抜かしているのです」

「あの男?」

「利益です」

「そんなつっけんどんに言うな、慶次郎じゃろ、慶次郎」

「ええそうです前田慶次郎です。あの」


 その関白の親友兼元本当の隣人だった利家が、急にしかめっ面になる。家康が少し気まずそうに目線を上げ前田慶次郎なる男を思い出そうとするが、ちっとも頭に浮かばないようだった。

「何を言うか、お互い若い時は派手にやったじゃろうが?」

「若い時はです、この身はもう五十三です、そしてあやつはもう四十四です!一体いつまであんなふざけた真似を。まったく、あれで武勇では家内一なのですから性質が悪い!まつもまつで、もう少しきつく言ってもいいはずなのに、この身の金遣いが悪いとか言い出して!」

「申し訳ございませぬ、それがしに合わせていただき」

「ああ相すみませぬ、つい愚痴が多くなってしまいまして……」


 秀吉があくまでも陽気にはしゃぎ、家康が真面目に返す中、利家は深く頭を下げた。

 利家とて若い時は信長と共に愚連隊よろしく暴れ回り、相当に華美な格好もして暴れ回った。だが桶狭間の後ごろからはすっぱりとやめ、自分なりに品行方正であろうとした。

 それを未だにやっているのが慶次郎であり、正直あらゆる意味で面白くなかった。秀吉は話が分かるとしても、真面目を絵に描いたような家康とはまったく合わないのは明白な存在の前でつい愚痴を述べたのは、利家の全く無自覚な処世術だった。

 

「いやそれより、その慶次郎が何と」

「下野がたやすく落ちたのには、忍び者の影があると」

「忍び者?そんな者は伊達にだっているじゃろうが。ましてや北条には風魔小太郎がおるんじゃぞ?」

「いや、それが石川五右衛門だと」





  


 ————————————————————石川五右衛門。







 あの、天下の大泥棒。


「石川五右衛門が、下野まで来てるっちゅーんか?」

「ええ、それで下野を冗談半分で荒らし、伊達政宗を迎え入れさせたと。もちろん聞き流しておりましたが、でもどうにもこうにも頭から消えぬのです」

「だとすればなんで五右衛門はそんな事をしたんじゃ?冗談半分とか言うにしては妙に事が大きすぎやせんか?」

「それがわからぬから首を傾げておるのです」

 少しばかり昔の口調に戻った秀吉の頭の中に、五右衛門がそういう事をする意味は思いつかなかった。

「徳川殿は…」

「それがしはとんとわかりませぬ。しかしもし北条や伊達に味方するようならば……」

「そうじゃな。とにかく今は小田原を目指そう」




 豊臣秀吉、時に五十四歳。


 その頭脳に衰えはないが、それでも過去の経験が染みついていた。




 天下人となった彼にとって尊敬する人物は、今でも織田信長である。

 主として、武士として、師匠として敬愛していた。


 だから、知っていた。




 —————師匠が、決して裏打ちのない事をしないのを。




 桶狭間の戦いさえも勝ち筋に相手を誘導し、その後の戦いでも決して負けないようにあらかじめ綿密に策を練っておく。一見派手に見えて堅実なそれ。時に将兵の力を頼る事があっても、決して普段以上のそれを求めない。そして何より、ダメと見ればすぐに逃げられる。




 その全てを、敬愛していた。

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