武蔵忍城
石田三成は、悠然と馬を進めていた。
「こうも簡単に行くとは……皆々様には感謝せざるを得まい」
真田昌幸の家臣鈴木重則らの先導により上野入りしてよりひと月の間に、北条の城が次々と開城した。
「しかしあまりにもうまく行きすぎじゃないですかねえ」
「圧倒的な力をもって圧し、その上に犠牲まで無に近い。言う事などないはずだろう」
豊臣軍の動きはそれほど複雑ではない。手近な城から圧倒的な数を見せつけて降伏を促し、応じれば人質を取って傘下に加えた。応じなければ圧倒的な数で攻撃をかけ、落城させた。その繰り返しだった。
「時として単純明快な手段こそ有効だ。私の好みではないが」
「いやね、それが嫌な予感だって言うんですよ、まあ年の功って奴ですか」
三成の傍らで気安く話すのは、島左近清興。
三成の重臣であり、元筒井家の重臣である。五十路ともそれ以上とも言われているが、かつて武田信玄に師事したとも言われるその腕前は確かな物であり、三成の腹心と言うべき存在だった。
「次は忍城ってとこですけどね、あそこは小さいけどかなり堅固だって言われてますよ」
「なれば同じようにするまでだ、最悪軍を置き捨てにしても構わぬと思っている」
兵をあちこちに割いても軍を進められる力があるのが豊臣軍、それも分隊の現状だった。厄介な城ならば置き捨てにしてもなお、十二分な数を保てる。そしてその分の食糧も装備もあるのだ。
「でもいいんですかい、刑部様はどうも不安がってらっしゃるようで」
「刑部殿の言う通りに一つ一つやっているのだ、次の目的地までは問題あるまい」
三成は、自信満々だった。
そんな石田軍ご一行がたどり着いた忍城は、これまで三成たちが落として来た城と規模は大差なかった。
「川越城の数分の一だな」
三成のその批評は、だいたい当たっていた。もちろん小田原は重要だが、それと同じかそれ以上に重要なのが川越城だった。
下野の中心が唐沢山城だったように、武蔵の中で一番重要なのが川越城だった。そこさえ落とせば武蔵の北条方は急速に力を失い、北条の国力挽回は難しくなる。それに小田原に対しても単純に脅威になるし、戦意だって削げる。
「とは言えたやすくはありますまい」
「わかっている。とりあえずは降伏勧告をしてみる」
大谷吉継の言葉に対し、いつも通り降伏勧告をする。このひと月で数度目となる行いであり全く慣れた物であり、三成はまるで心配などしていなかった。
「拒否された時のために準備はしておきます」
「頼むぞ」
吉継と共にいた信州上田の真田昌幸が少しだけ眉をひそめるが、三成は一向に気にしていなかった。
「領民一人たりとも北条の家臣であり、豊臣には屈さぬと」
「そうか…」
で、拒否された事に対しては落ち込み以上に残念と言う感情が先立つ程度には、三成は余裕だった。
「とは言えこの忍城、地形的にはかなり厄介です。単調に攻めるだけでは犠牲は膨らみましょう」
「置き捨てにするか」
「それも考えられましょうがその場合、百姓たちが厄介です」
「百姓たち?」
「攻略と置き捨ては全然違います。降伏させた場合は城主自ら百姓を抑え込んでくれますし、城主を討ち取った場合多少の軋轢はありますが百姓たちは新たなる領主を見極めるのでその分だけ余裕があります。ですが置き捨ての場合、百姓も城主もまったく健在です。敵意も、戦力も」
昌幸からしてみれば、置き捨てと言うのは安易に思えた。確かに目標に向かって前進するに当たってはいいかもしれないが、そこまで急ぐ必要など今はないはずだ。
「確かに最終目標は小田原です。しかし小田原では関白殿下自ら指揮を執っておいでのはず。我が愚息が側仕えして感じておったように、その力は今や天下人のそれでございます」
「つまりここで私がもたついても構わぬと」
「ええ。万が一置き残すとなれば一万の兵を残さねばなりますまい」
「一万……」
昌幸が出した一万と言う数字はあまりにも厳しい。
忍城の軍勢は農民込みでも三千であり、せいぜい二千、目一杯警戒して三千も割けば十分だと三成は見ていた。半ば救いを求めるように吉継の方を見るが、吉継も小さくだが強くうなずいていた。
「それは、信玄公の教えですかい?」
それに対し島左近は、どこか楽し気に問う。
「いや単にわしは北条の本拠ゆえに民は北条に最大限に懐いていると考えた上でな」
「確かにそれはそうでしょう。とは言え一万なんて置いたらこれから先の打撃力は激減しますよ。それこそそれだけの軍を指揮できる将も必要不可欠ですし。まあそれがしがやってもいいんですが」
「よせ左近。真田殿は忍城を攻めるべきだとおっしゃっているのだ、そうでしょう?」
「これ以上は何も。刑部殿は」
「それがしも賛成です」
昌幸は決して、全部を言おうとしない。この舞台における自分の立場、と言うか十数年前と同じようなそれをわきまえて動いていた。
「わかりました、行きましょうや!」
一方で左近は思ったままの事をずけずけと言い、三成にも遠慮がない。
「同じ人間に師事してもここまで違うとは……」
「同じ土壌に同じ花ばかりは咲きませぬからな」
吉継も二人の武田信玄の弟子の差に感心したようだった。
だが信玄が圧勝した三方ヶ原の戦いにいただけの上に、その後は石田三成と言う天下人の側近の部下となった島左近。
その後の武田滅亡から小大名として振り回され続けた真田昌幸。
同じ信玄の弟子でも、二人は全く違っていた。
「この城に関してであるが、実は関白殿下は元からその存在を危惧していらっしゃった」
「危惧とは」
「元よりこの城は堅固であり、真田殿が申し上げられたように置き捨てにするのも難しい。なればこそ、我々の力を見せつけるやり方で落とさねばならぬ」
「まさか干殺しを」
「違う、水攻めだ」
水攻め。
備中高松城を落とした秀吉の作戦。
その最中に本能寺の変が発生し、城将の清水宗治の自決と事実上の毛利の服属で片が付いた戦い。それからいわゆる「秀吉の大返し」によりすぐさま帰還した秀吉が光秀を討ち信長の後継の地位を確立したのは、ほんの八年前である。
忍城が堅固なのは二本の川に囲まれた扇状地だからであり、その川が堀となっている。だがそれは流れを少し変えればたちまちにして水に浸かってしまうと言う事でもあり、そうなれば手の打ちようがない。最悪、やはり秀吉よろしく干殺しにもなる。
「とは言えそのための堤を作るとなればそれなりに時間は要します」
「そんな時のために金穀がある。刑部殿や弾正(浅野長政)殿と共に細かい所は詰めて行くが、百姓たちに多量の金穀を配って工事をやらせる。汚いかもしれないが一番安全でもある」
買収と言うと体裁が悪いが、実際人が死ぬよりはずっと良い。もちろん北条家や成田家からしてみれば不義理だが、百姓たちから言わせれば領国を守ってくれない両家の方が不義理である。
「ですが問題もあります」
「問題とは」
「上杉はこの案に賛成なのでしょうか」
「それはこれから共に詰める」
「いえ、それがしが言うのも何ですが上杉家は関東管領です」
「そもそも上杉を放り出したのは北条だ。その北条を倒すための計だと言えばいい。刑部殿、真田殿、お気遣い痛み入るが安心してもらいたい」
昌幸が頭を下げながら去っていく中、三成と吉継は浅野陣へと向かった。
水攻めの細かい打ち合わせのために、秀吉の命令を忠実に実行するために。
(犠牲者たちには哀悼の意を示し、そしてその上で我々の手によりそれ以上の王道楽土を作り上げる……)
福島正則や加藤清正・嘉明とか言った人間たちは、石田三成と言う存在を嫌っていた。いつも秀吉の側でせせこましく動き回り、舌先三寸で秀吉のご機嫌を取っては威張りくさっている鼻持ちならない奴だと思っていた。
だが三成からしてみれば、まったく秀吉のためでしかなかった。尊敬する主のために動き回り、主のために戦う。今回もまた同じようにするだけであり、その結果何と言われようが一向に構わなかった。
—————そう、彼はあまりにも純粋過ぎただけなのである。
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