闖入者、石川五右衛門

 天正十八年、三月一日。ついに豊臣軍が動き出した。




 数は十六万。


 信濃方面から攻め込む軍勢が三万、駿河方面から小田原城を狙う軍勢が十三万。


 古今東西類を見ないほどの大軍であり、将の顔ぶれもただひたすらに豪華だった。


「秀康、父上は元気じゃったか」

「今の父は関白殿下です」

「つれない事を言うな。実の父じゃろ」

「それは無論存じておりますが、今の私は豊臣秀康ですので」


 秀吉は輿に乗せられながら、養子の一人である豊臣秀康に話しかける。

 徳川家康の次男である秀康は事実上側室の子であるためか人質のように秀吉に出され、徳川の跡目は十二歳の長松(秀忠)と言う事になっている。もっとも秀康も棄丸の誕生により秀吉の子としての立場は怪しくなっているが、それでも構う事なく養父に忠実にしている。

「とにかくこの戦いが最後の、少なくとも最後から二番目の戦いになる事を願ってなりませぬ」

「皆気持ちは同じじゃ」

「ですがそれは、数多の将と戦場を共にし学べる機会はもうないと言う意味でもあります。この体験を無駄にはできませぬ」

 秀吉はいつもながら朗らかに言う。この笑顔こそ秀吉の最大の武器であり、しかもまったく意図せずに振るっている武器である。


 その武器によりかき集められたのが、家康を含むこの国を代表する将たちである。

 家康に加え親友の前田利家、毛利家の総大将としての小早川隆景のような本州の大名。それだけではなく、長宗我部元親、立花宗茂、鍋島直茂と言った四国や九州の有力者もこの戦いに加わっていた。豊臣家直属としては福島正則と加藤清正と言う武闘派の二人がおり、彼らが秀吉の親族として明日の豊臣家を担って行く事になるのは明白だった。

 さらに言えば石田三成率いる信州軍には上杉景勝を筆頭に真田昌幸と浅野長政がおり、豊臣子飼いの大谷吉継も才人である。


「じゃからこの戦いは決して気を抜いてはならん。その事を忘れるでないぞ」

「心得ております」


 だからこそ。本気を出さねばならぬ。そう決意できる程度には、秀康は立派な男だった。




※※※※※※




「あまりにも早すぎませんか!」


 その名将たちが本気を出しまくるとどうなるか。その結果はあまりにも簡単だった。

 確かに小田原城は耐えているが、そこ以外は別問題だった。


 豊臣軍の圧倒的な数を前にして、ひと月もしない内に次々と北条の旗は降ろされた。下野は言うまでもなく上野も武蔵も次々と城を失い、半ば孤立状態になった下総と上総も次々と劣勢に陥っている。

「謙信も信玄も小田原城を落とせなかった。そういう事です」

「そういう事ですじゃありませんよ!」

 父親に向かって吠える少女は、謙信や信玄が生きていた時代など知らない。その分だけ小田原城に対する信用も落ちており、と言うか北条の家臣でありながら行った事さえもなかった。

「小田原を守った所で他全部奪われたんじゃ意味がないですよ!と言うかこの城をこんな人数で守れと言うんですか!」



 彼女がいる城の名前は、忍城。



 自分に報告した男に吠えているのは城主成田氏長の娘、甲斐姫。


 なお氏長は小田原城に向かっており、彼女が吠えていたのは氏長の従兄弟の長親である。



 そして忍城に今いる兵は、五百にも満たなかった。


「しかもこの五百人で何人の兵と戦えるんですか、豊臣の軍の!」

 ついでに言えばその五百人の兵と言うのは小田原城に籠城するために向かった精鋭の余りであり、装備はともかく練度は三流だった。強引に農民をかき集めれば三千まではいけるが、言うまでもなく少数だ。

 そこに迫る兵は、三万。実際には占領した城などに兵士を残しているからやや少ないが、それでも二万五千を下る見込みはない。


「攻めて来るとは限りませんが」

「やかましいわよ!それならそれで余計に腹立たしいじゃない!って言うかここをほっといてどこを攻めるわけ?川越とか?」

「そうですよ姫様、この武蔵の中核は川越!そこを落とせばぶしつけながらこの忍城など鎧袖一触!あるいは我々をおびき出して討つ気やもしれませぬ!」

「その手ならば他の城から援軍だって出せるんでしょ、すぐさま集める使者をやってよ」

「それが出来れば苦悩せぬかと。と言うかどうなってるかもわからないのですから」

 上野も西武蔵もあっという間に攻め込まれたのだが、その先の情報がまるで忍城に入っていない。忍城みたく少数の兵だけ残しているせいで放置されているのか、それとも本当に落城しているのか、ちっともわからない。前者であったとしても質量とも期待薄であり、反撃をかけられる見通しもない。

 






「お困りのようですねえお嬢さんたち!」




 その空間に、いきなり割り込む有頂天を極める声。


「何よいきなり!」

「おいおいおいおいお嬢さん、そんなにカッカしちゃあいけませんねえ!俺はあんたらを救いに来ただけだよ!」


 甲斐姫が声の方向に向かって懐剣を投げ付けるが、まったく悠長な言葉しか返って来ない。救いに来たとか言うもっともらしい事を言いながら、こっちをさらにおちょくろうとしている。

「何だって言いたいの!聞いた所一人だけど、一人で十何万を何とかできるって言うの!」

「十何万はちと無理だけど……まあ三万ならば何とかなるな、と!」

 どこか芝居がかった口調で放った主に向かって甲斐姫は槍を突き刺しにかかる。

「まあまあ、そんなにカリカリしていてはカンダタが蜘蛛の糸を離してしまうが如し—————」

 もし男に産まれていればと成田家の人間を嘆かせる程度には勇猛なその槍を受けてなおまったく何も動揺する事なく、男は口上を並べ立てる。


「自分が蜘蛛の糸と言わんばかりの自信はどこから来るのやら!証拠を見せなさい!」


 甲斐姫がさらに食って掛かると、男は羽目板を外して数枚の紙を撒き散らす。




「信じるも信じぬもあなたたち次第————————————————————」




 そしてそこまで言ったきり、声は二度としなくなった。


「追いかけて捕らえますか」

「もういいわよ!ったく、いったい何なのかしら!」

「風魔様にでも」

「そんな暇ないわよ!」


 当然の如く怒り心頭な甲斐姫ではあるが、実際その方向に対してもまともな戦力などない事は百どころか千も万も承知である。いきなりやって来ておちょくるだけおちょくって去って行った何者かの事を全く追及できない事実が、改めて甲斐姫の血を沸騰させる。

「それでですがこれらの書は」

「勝手にしといて!」


 甲斐姫が乱暴極まる手つきで後ろ手に襖を閉めると共に、先ほど降って来た数枚の用紙が舞った。

 そこには地図もあれば文字ばかりのそれもあり、ぱっと見ではただ平凡なそれに過ぎなかった。


 しかし、なぜか長親の目は動かなくなった。


「こ、これは……!」


 長親はやがて着地した書状を丁重に拾い集めては握り、一枚一枚穴が開きそうなほどに眺めた。


「それが、何か……」

「少し待て!」

 長親は書状の送り主を探さんと必死になった。

 確かにこれが本当ならば、この難局も乗り切れるやもしれぬ。だが罠だとすれば一発で全滅だ。

 と言うか、こんなに都合のいい話を持って来るのは風魔でなければ敵しかいない。だがいくら豊臣軍とは言えこんな所にまでこんな真似をするなど、むしろ脅え過ぎと言うべきだ。




(わしは、いや成田はこの書状に全てを賭ける!)




 長親は書状を三度見ほどしたあげく、その結論を出し、力強く父親の泰季の下へと向かった。



 御年七十五になる城内で今もっとも威厳を持った存在を納得させ、その存在をもって甲斐姫を動かすために—————。



 この時四十五歳の長親は、片倉小十郎や伊達政宗よりずっと決断力があった。

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