佐竹義宣の書状

 ここで話は二月十日に遡る。




「攻撃期日は三月一日だそうです」


 佐竹家の若殿・佐竹義宣は書状を受け取っていた。

 署名は石田三成。秀吉の側近だ。


「それで最後の最後まで関白殿下は降伏を求められると」

「いかにも。今ならば相模伊豆二ヶ国は保証すると」

「確かにその程度ならば我々も納得するがな。だが北条が呑むとは言っていない」


 戦の前に明らかに守れない条件を吹っ掛けるのは宣戦布告でしかないが、それでも義宣にはひどく寛容に思えた。


「この間にも殿下は攻撃を進めようとしているのだろう。おそらくは北と南から、上野と駿河から」

「いかにも。駿河には関白殿下自ら出陣し徳川殿を筆頭に十万以上、北側には石田治部少輔殿が大将として三万です」

「治部少輔殿の他には」

「大谷刑部殿や長束殿、上杉殿に直江山城守殿、それから真田安房守殿など」

「いかにも助攻だな」


 そして北側に派遣された軍勢は、明らかに二軍だった。

 確かに大谷吉継や直江兼続、真田昌幸と言った面子そのものは悪くないし上杉景勝もいるが、総大将が秀吉子飼いの石田三成と言うのが何ともしょぼい。もし本気で行くならば上杉と同じく北陸に領国を持つ前田利家辺りを総大将としてあてがうだろうし、数ももう二万ぐらい割く。

 

「北条は」

「かつて不識庵殿や信玄公がしたように小田原城に精鋭を集め、攻めきれなくなったのを待つ予定のようです」

「二度あることは三度あるか、見た事はないが。しかしさすがに甘く見過ぎだと思うがな。関白殿下がどうやって勝って来たか知らぬ訳でもあるまいし」


 義宣はまだ若い事もあるがかなりの勉強家で、秀吉の事も知っていた。そして秀吉がたやすく落ちない城を落とすために何をして来たかも知っていた。

 備中の高松城を水攻めにした事もあれば、播磨の三木城をただひたすら包囲し続けた事もある。

「にしても今日の飯はうまいな」

 義宣がなんとなくそうこぼすと、空気が少しだけ逆戻りした。もちろん、義宣もそれを承知で口にしたのである。




 —————干殺し。


 それこそ、秀吉の必殺技だった。


 徹底的に城を包囲して立ち入りを取り締まり、逃亡も許さないし物資の搬入も認めない。長引けば長引くだけ城内の口と胃袋が食べ物を食い尽くし、やがて飢え死にしてしまう。

 字面にするとやる事は難しくないが、実際には圧倒的な数での包囲をするゆえにこっちにも大量の食糧を補給せざるを得ず、また少しでも包囲の網が破れればそこから逃げ出される危険性もある。もちろん包囲を破らんとして来る救援軍との戦いも何とかせねばならない。その単純にして難解なやり方をうまくやって見せるのが秀吉の才覚であり、織田家の財力だった。中にはあらかじめ兵糧を数倍の値で買い漁ると言うやり方をした事もある。


「関白殿下の蔵には金がうなるほどあるのだろう。もちろん兵もとんでもない数がいるし、おそらく水軍も来る。補給にはうってつけのな」

「それでは北条は」

「その気になればいくらでも攻囲戦を続けられる。何なら一日一枚でも城門を破ればその分だけ勝ちに近づく。いくら小田原が堅城と言えど限度と言う物がある」

「はぁ……」

 北条の命運は、どうにもならない。それが、義宣の見立てだった。

「我々佐竹にも出兵要請が来ているのでしょう、ならば疾く」

「いや、ただ……どこかから軍が湧いてきて小田原城包囲網のどこか、東側辺りを崩すようならば残り目もあるがな」


 だがそんな冷静な視点を持ちながらも、二十一歳の青年は人の悪そうな顔をしていた。


「まさかその軍勢になると」

「そんな訳があるか。だがそれができる男が一人いる。しかも絶好の位置に」




 今、あまりにも絶好の位置にいる男。

 その名前は誰もが分かっていた。


「しかし、なぜ彼はそこにいるんだ?」

「誰かが誘導したのでしょう」

「では誰だ?北条とも豊臣とも思えぬ誰かが下野をかく乱させたのか」

「でも若殿は伊達でもないと」

「ああ。おそらくは伊達に与せんとする何者かが仕掛けたと見ている。まったく、うらやましい事だな!」


 その男に喧嘩を売るように、義宣は膝を叩く。

 伊達と佐竹はつい三年前芦名家を巡って事実上争った事があり、言うまでもなく仲は最悪に近い。義宣の弟の「芦名義広」を放逐して芦名領を奪ったのが伊達政宗であり、伊達小次郎を芦名小次郎にして芦名家を手に入れようとしたのも伊達政宗である。もちろん佐竹家は北条とは犬猿の仲であり、佐野氏忠によって事実上北条領と化した下野を攻めとる大義名分など政宗と違っていくらでもあった。


「そんな事が出来る人間は誰だと思う」

「風魔小太郎が北条を見捨てたとか」

「馬鹿らしい、と言いたいがあそこまで下野を簡単に混乱させられるとしたら忍びの類の存在しかないかもしれぬ」

「ではやはり」

「そんな訳があるか。おそらくは風魔に匹敵する忍び者だろう」


 いくら忍びが影の存在とは言え、どうしても活躍と知名度は比例してしまう。もちろん佐竹だってその手の存在はいるし伊達の間者の中でも何人か名前を把握している存在はいた。だがその中に、それなりに平穏だったはずの下野を山賊や盗賊、一揆などを起こしてあそこまで混乱させられるほどの存在がいるのか。

 しかも。その後伊達家が入って来るやそれらの混乱は急に収まった。まるで北条を追い払い伊達を主に迎えるかのようにその忍びは振る舞い、かつ伊達家の治世を安定させるために動いたと言うのか。

 

 そして、そんな忠臣ぶりを見せながらも、まったくその正体がつかめないどころか目的さえもつかめない。


 愉快犯と言うにはあまりにも大掛かりで、あまりにも摩訶不思議。



「とは言えそんな者にかかずっている余裕など…」

「わかっている。伊達家がいるゆえに上野及び武蔵の攻撃に向かうのは難しいやもしれぬ。攻撃するとすれば下総側になりそうだ」

「下総でも武蔵でも北条領には変わらぬと」

「だな。いざとなれば政宗のせいにすればいい」

 だがそんな存在を相手にする時間など、佐竹家にはなかった。と言うか佐竹家自体その謎の存在についてかれこれ五ヶ月近く調べているのに、ちっとも手掛かりがないのだ。それらしい存在にはたどり着くのだが、調べてみると同一人物にならない。ましてや下野は常陸よりもずっと雪が多く、冬の往来は間者と言えど困難だった。

 







「下野にて伊達軍がはびこっているゆえ上野への攻撃は不可なり。我々は下総を攻める事により関白殿下に奉公する事を選んだ故どうかご容赦願いたい」


 義宣の後押しもあり、佐竹家当主義重は下総への攻撃を決めた。言い訳ならば後でいくらでもできる。伊達のせいにすればいい。

 そう割り切りながら、佐竹軍は下総へと向かった。







 そしてその頃この戦の仕掛け人は、下野にも下総にもいなかった。







 武蔵にいたのである。

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